「輝ける希望の歩み」  マルコによる福音書10章46-52節

 生活には希望がなければ張りがなくなる。希望があることは喜びもある。希望は未来に属することである。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを、だれがなお望むでしょうか。」(ロマ8:24)そして、「歩み」は現在の問題である。マルコの10章にはバルテマイという視力障害者の話が記録されている。

視力を失った理由は書かれていないが、本人が常々見えるようになりたいと思っていたというより、イエスが来られると聞くと「わたしを憐れんでください」と叫んでいる。それはすでにイエスが、驚くべき奇跡を行い多くの人が癒やされているという噂をすでに聞いていたと言える。このイエスこそはイスラエルを救うキリスト、救い主であるのではないかと言う噂を聞いていたとみえる。彼の心に中には、この方にお会いできればひょっとすると自分も神の恵みに預かり見えるようになれると思ったに違いない。

 今日も道端で物乞いをしているとイエスが来られるという人の話す声を聞いた。彼はこのチャンスを逃がしてはならないとイエスの憐れみを求めて叫び始める。人々は邪魔にして黙らせようとしたが彼は叫び続けた。イエス様は立ち止まり彼を招かれる。彼は、上着を脱いで、踊りあがってイエスのところに行ったとある。イエスは彼に「何をしてほしいのか」と尋ねられると即座に「見えるようになりたい」と言っている。イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言っている。そこで彼は見えるようになる。

 第一に、イエスのことを聞かないときは、バルテマイは盲目であることを諦めていた。人の同情にすがって生きる切なさとやるせない絶望の日々であった。彼は人生そのものを諦めていた。しかし、イエスの名を聞いたときに希望が湧いてきた。ひょっとすると「治る」、見えない目で可能性の光を見た。彼に希望が与えられた。そこに喜びが生まれた。第二に、彼は、イエスが来られることを聞くと叫んだ。彼の祈りである。

イエスの招きの声を聞くまで、叫び続ける。とどめられ、いさめられ、邪魔をされても「叫ぶ」祈りの気持ちを止めなかった。第三に、彼は何をしてほしいのかと言われると、即座に「見えるようになりたい」を言う。祈りは、はっきりと率直に自分の思いを告白することが大切である。イエスは言われている「あなたの信仰があなたを救った」と。イエスがこの視力障害者を救われたのであるが、本人が、祈り求めなければこの神の恵みは結果として現れない。イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタイ7:7)と言われる。

 バルテマイの不遇な人生は、諦めと絶望であった。しかし、イエスの名を聞くことによって期待が生まれる。この期待が輝く希望となる。そして、解決の道を求める。道が開かれ、癒やされる。この癒しが、生活の回復となり、人生の輝きを取り戻す。それは神の恵と愛への期待に始まる。

その期待こそは信仰である。人生をのろい、現実の苦しみにあえぐとも「からし種の信仰」によって暗闇に光を、迷いに確信を与えられることになる。「自分の体で神の栄光を現しなさい」(コリントⅠ、6:20)と言う。イエス・キリストを信じる信仰は神の栄光をあらわす人生と生活になる。        



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