「一つ心になる祝福」  ヨシュア記6章1-8節

 今、日本の国家は危機的問題に直面している。五千万人の人の年金の明細がわからなくなっていると言うのである。政治の世界は与党を野党が正すと言う構図で展開する。野党にとっては与党の責任を追及するチャンスと攻め立てている。しかし、よく考えると昨今のことではなく何十年の結果である。

一般社会の企業、特に金融関係で顧客名簿の半数が不明になると企業の社会責任は重く問われる。国政を精査する全国会議員の責任であることに気付くべきである。特に与党の責任は思い。国民の老後の生活不安であることに気がつかねばならない。そこで与党、野党の思想や主張の違いを超えて一つになって挙国体制で問題解決に取り組むべきである。すでにスエーデンでは年金問題については挙国体制で取り組むことになっているという。

 何事につけ「一つになる」ことがすべての祝福につながる。人間は、一人ひとりが個性があり、育ちも、環境も違うところで成長して癖ができる。東洋、西洋に違いがあり、民族と民族の違いがある。国と国との違いがあり。時代によって違いがある。それに意欲や野望が絡み、家庭では憎しみ合い、社会では争いとなり、国と国とは戦争となる。人間にとって「一つになる」ことは限りなく難しい。

 キリストは最後の祈りで「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)と繰り返し祈られている。そして「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つとなるためです」(ヨハネ17:23)と言われている。「わたしが彼らの内におり」とは、キリストを信じる人々を指している。「あなたがわたしの内」というのは、人となられたキリストは、神と全く一つであることを言っている。

そのことは次の言葉で説明されている「わたし(キリスト)に対するあなたの愛が彼らの内にあり,わたしも彼らの内にいるようになるためです」(ヨハネ17:28)。「完全に一つとなれる」のは、神の愛が、キリストによって現され、キリストを信じることはキリストの愛に、神の愛に生きることにほかならない。キリストの愛とは、個性が違い、性格が違うとも、お互いに受け入れ、認め、赦し合い、思いやることである。

そこにはキリストを受け入れる。キリストの愛の原則を受け入れることが求められる。それこそ、人間の限りない欲望と野望にさいなまされる罪深い心を直視し、悔い改めて生まれ変わりキリストの贖罪、罪の赦しを受け入れて神の愛の心に生きるようにされることである。

 ヨシュア記6章にはエリコの城攻めの記録がある。ヨシュアに引き連れられて約束地カナンに入る第一の難事業であった。エリコは強固な城壁で固められた城塞の町であった。ヨシュアは神のメッセージによって攻略方法を聞いた。それは、契約の箱を中心に隊列を組み、ラッパを鳴らして毎日一回、7日目に13回城塞を回り進軍し、最後にラッパの長い音を聞いたら鬨の声をあげると言うものであった。

その通り、怪奇な進軍は続いた。そして鬨の声と共に城塞が崩壊する奇跡が起こり戦いは勝利に終わる。
このことは、第一に、神の言葉を中心におくこと、神への信頼こそすべての中心である。
第二に、命令の行動が理解できなくても、神の御心は恵であり、ひたすら実践することによって勝利しえた。
第三には、行軍するラッパの音が、賛美と告白のしるしに見える。困難な人の「一致」が、信仰によって実現すると言える。

神の言葉への信頼と神の言葉へのひたすらな従順、実践、そして、その信仰が続き告白され、神をたたえる賛美となるとき道が開かれる。信仰と愛と希望がそこに証しされる。



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