「神に似せて造られた人間」  創世記1章27節

 「神は自分にかたどって人を創造された。」(1:27)聖書の最初の創世記にはすべてのものは神によって創造されたで始まっている。そして、最後に人を造り、すべてのものを「支配する」ように定められている。(1:28)ここに人の生きるすべての原理が集約されている。命の根源者である神は、行動の動機は「聖」、動機の根源は「愛」であるという。聖書は「神は愛なり」(ヨハネⅠ、4:8、16、ヨハネ3:16)、「神は聖である」(詩99:5,9)であると言っている。

そして、イエスは山上の説教の中で「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)といわれている。これは、神の御心に生きる、神に喜ばれる人になると言うことに尽きる。「完全」なることが最初から出てくるとどのような人間も、それは無理と言うことになる。

本来的に人間は、神からはなれて自己喪失に陥る。自己中心にしか生きられない自分になってしまっている。そこに人間の根源的な罪と弱さが付き纏う。生きる目的を失った人間であり、真実な愛を失っている。聖書の「しなさい」(聖に生きる)という言葉は「してあげよう」(約束)と言う言葉に裏付けられている。

神は聖であり、愛であるということがこの言葉に現されている。その神の愛を現実に示してくださったのがイエス・キリストである。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ5:8)キリストは信じる者と共にいて、助け導いてくださることを約束される。だから神の御心にかなうように生きようとする願いと勇気、努力が生まれる。信仰は希望となる。

目標が希望となり、努力となり、忍耐となる。それはキリストよって神に愛せられている自分を発見し、確信したからにはかならない。人は、人共に生きる。生まれたときから家族があり、友ができ、仕事の同労の友ができる。人間は関係で結ばれて生きる。孤独では生きられないし、生きることはできない。

それはまた「人は愛で生きる」ことを意味する。関係が破れるときにいろいろな問題が起こる。「神に似せて造られた」人間は、神の御心(聖)に生き、それを実現するために「愛」に生きることになる。

「神は愛である」ことは、
第一に、ここでは愛とは何か。キリストによって現された「愛」に生きることである。十字架の愛である。キリストの戒めは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)に尽きる。
第二に、「愛」は具体的に生活でどのように現れるのか、「一致」を生み出す。そこには「和解と赦し」があって成り立つ。(先週のテーマ)そして、「思いやる」こと、「いたわること」、「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリントⅠ、13:4-7)そこに一致と平安、希望と喜びが生まれる。
第三に、「愛」は夢を与える。期待と自己実現の道を与えることになる。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(へブル12:2)まさにクリスチャンの自己実現、幸福感とはイエス・キリストに生きること、イエス・キリストを目指すことにほかならない。



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