「世の光キリスト」  マタイによる福音書5章13-16節

 「あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父を崇めるようになるためである。」(マタイ5:16)

 マタイによる福音書の5章から7章にはクリスチャンの歩むべき道が纏めて書かれている。これは「山上の説教」といわれ、新約聖書の「十戒」ともいわれている。その道の目的は「立派な行いを見て、天の父を崇めるようになる」ことにある。それは創造主なる神は、素晴らしいとほめたたえ、その偉大さに感動して礼拝するようになることである。

「立派な行い」とは結果としてではなく、「立派に生きる」ようにさせられた人を見て驚きと感激に出会い、神様は生きてお出でになることを認めるようになることをいっている。

5章の48節には「天の父が完全であるように、あなたがたも完全なものになりなさい。」という。このような崇高な戒めは、罪深く、弱く、迷いやすい人間には不可能である。しかし、神の恵みによって、神の御心に生きることができるようになる。そこで不可能が可能となる。立派に生きることが不可能でありながらも、立派に生かされる人になる。

 聖書は「あなたがたは“地の塩”である」と「あなたがたは世の光である」という二つの象徴で「立派な生き方」を表わしている。その一つである「塩」とは、日常的には腐敗を止めることと、味付けることにある。

「塩」がその性能を持たないとすれば「役」に立たなくなる。まさにクリスチャンは、「地の塩」の「地」とは生きている社会であり、地域であり、家庭である。社会の腐敗は分裂、闘争、憎しみ、対立を意味する。その腐敗を止め、解決し、救い、回復する。平和と建設の力と希望となる。

「味付ける」、即ち、喜んで受け入れることであり、楽しむことである。お互いに受け入れることは和解と一致よって平和と平安が与えられることを意味する。

 そして、「世の光」の世は、生きる世界であり、この世の社会、職域、地域、家庭である。明るさは人々の希望と平安の保証となる。そこに連帯が生まれ、団結が力となり、生きる希望となる。「塩」の効力である腐敗を止め、味付ける性質は本来、持っている性質である。

キリストを信じるクリスチャンは本来、社会に解決と回復する力が与えられていることを約束されている。そして、光としてその光の光源としてのキリストの命である聖霊が絶えず信仰によって受け入れられるとき、キリストの光を発することになる。

その光源とはまさにキリストの愛であり、キリストの戒め、神を信じる者が歩む原理である「愛の戒め」にほかならない。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34,35)とイエスは言われている。

また「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。キリストを信じ、従うことによってのみ、「立派に」生きる。即ち、キリストにある勝利と希望に生かされ、「世の光」として輝き続けることができる。      




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