「祝福を結ぶ祈り」  マタイによる福音書6章1節―8節

 神を信じるクリスチャンにとって、信じている証しは「祈る」人であるということである。信仰には礼典や生活の慣例が、教えに基づいて形成される。何時しか、教えが習慣となって信仰の自覚がないままで命を失い、形式化されていく。祈りの生活も何時しか形式的になってしまうこともある。イエスは、生きた信仰は真実の祈りによって証しされることを教えられた。

 マタイ福音書6章1-8節には祈りについて二つの基本的な心構えを示しておられる。その一つは、偽善的な祈りである。一つは、神を信頼する祈りである。そして、9-13節に「主の祈り」といわれる祈りの模範が示されている。しかし、皮肉にも「主の祈り」を習慣的に繰り返しとなえて心がこもった祈りにならないようになることもある。イエスの信仰は、いろんな宗教にありがちな理解しないでお題目を繰り返し唱えたりすることとは違う。

 真実な祈りの第一は、偽善者の祈りであってはならないということである。当時のユダヤ人の社会では、喜捨と断食と祈祷が立派な人とされ、ファリサイ派の人で大げさな祈り、献金を見せびらかし、他人を見下していた。(ルカ18:9-14)イエスは、一人で部屋に閉じこもって父なる神に祈ることを教えられた。祈りは神との交わりであり、語らいである。真実の祈りはイエスのみ名によってとりなされて生まれる。

第二に、「くどくどと語り」言葉の数が多ければよいと言うものではないといわれている。ここでも祈りが美辞麗句で形式化されていることを指摘されている。もっとも根本的なことは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものはご存じなのだ。」(6:8)神は、祈る前から祈る人の心をすべて知っておられる方であるというのである。だからこそ、信頼してすべてをお任せして率直に祈ることができるというのである。

 そこで、真実の祈りは、人の願いや思いによって祈るのでなく、実は、救い主イエスによって祈らされるというのが正しいといえる。イエス・キリストによって罪赦されて神の子とされる。神を信じる。信頼するものとなるのは神の御心に生きるものとなることであり、神喜ばれる生き方こそは生活と人生の目的となり、そこに幸せを発見することにある。

「何が神に御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる。」(ロマ12:2)ことが生きる基本となる。神を信じることは、神に喜ばれることを願う生き方になる。言換えれば、神様が信じる人の心に願いを起させてくださることになる。(フィリピ2:13)

信仰は祈りに導き、祈りは信仰を実現することになる。信仰とは、まだ見ていないものを願い、祈りによって待ち望み実現することになる。(へブル11:1)だから、一つ、諦めない。二つ、粘り強く祈る。三つ、信頼して祈り続ける。四つ、聖霊にゆだねて祈ることこそは実効的にして、効果的な、祝福を結ぶ祈りとなる。

「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」(ヤコブ1:6,7)    





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2007年8月5日の礼拝メッセージ