「信仰と心の成長」  マタイによる福音書7章7―12節

 人生は幸福を求める旅である。生まれと共に、食を求め、安らかな眠りを願う。自然な中で両親の愛情に育(はぐく)まれて育つ。それは無意識の時期である。やがて、いろいろと自分のほしいものを求めて育っていく。そして、人として求めてよいものと悪いもの、してはならないこととをわきまえることを教えられて人として生きていけるようになる。

 人は、教えられて本来の人になる。それが教育である。人が生きる最も基本的なことは“有難う”と“ごめんなさい”がいえることである。“有難う”は“感謝”であり、好意への喜びの表現である。そこに、人間と人間の結びつきが出来る。この関係が、助け合える絆となる。“ごめんなさい”は謝罪であり、“ざんげ”ともいえる。

善悪がわかり素直に“謝る”ことができることは幸せである。「わたしは罪をあなたに示し、とがを隠しませんでした。わたしは言いました『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」(詩32:5)悪いとは“罪”を知ることであり、罪は人間関係を破壊し、混乱させるもとである。そのことを回復するのは“謝罪”と“赦し”である。

 聖書は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)と言っている。神様を信じるものには“可能性”を約束している。「わたしを強めてくださる神様のお陰で,わたしはすべてが可能です。」(ピリピ4:13)また、「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)といっている。神の“味方”とはキリストの御心におかれていることであり、キリストの御心に生きることである。

 人は、幸せに生きよう、さらに、よくなろうと努力する性質を持っている。正に、“よくなろうとする努力”が教育である。神は、創造のはじめ人にすべての自然を御自分の栄光を表わすためにゆだねられた。(創1:28)ゆだねられているものを通して幸せを築くように備えられている。そこで、人は、自分の幸せを求めても、他の人を不幸にすることは赦されない。人は共に生きる、平和に生きることができて本当の幸せとなる。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ7:12)これは、正にキリストの新しい戒めといわれる「愛に生きる」戒めにほかならない。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、みなが知るようになる。」(ヨハネ13:35)

 クリスチャンは信仰によってあらゆる可能性を持って生きる力を与えられていながら、共に生きる愛の教えが土台にあるのである。キリストの十字架に示された神の愛の心をいつも持つときにこそ「求める可能性、探す解決、門を開く希望」が生活に生かされることになる。「人間は教育によって人間になる唯一の動物」(カント)といわれるようにキリストに出会うことによって初めて真実の教育、すなわち、人になる道を見いだすことが出来るといえる。

「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ12:2)このことを踏まえて幸せの何かを求めるときにこそ祝福を待つことが出来る。キリストを信じる信仰は心の成長の礎であるといえる。




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2007年8月19日の礼拝メッセージ