「喜びに生かされる人生」   フィリピの信徒への手紙4章4-9節

 イスラエルではシェマー(聞け)と呼ばれている聖句「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4)を生涯の戒めとしている。

ユダヤ人は子供のとき一番初めに教わる言葉であって、また、死ぬときに人生の最後に告白する言葉である。それだけでなく日常でも子供に繰り返して教え、家に座っているときも、道を歩くときも、寝ているときも、起きているときだけでなく、腕にむすび、額にもつげなさいと言っている。

それだけでなく家の入り口の柱に書き記せといっている(申命記6:4-9)。この「シェマー」は、子供が父親のひざに座っているようであると考える。初めに、子供は父親を意識し、そして父親を愛するようになるという。そして父に従うようになるだろうという。このように神様と人間との関係を表わしており、最初に神様を知り、そして神様を愛して、それから神様に従うようになるというのである。

 生まれてこの方、父の腕にいだかれて育ってきた、愛されてきたことがだんだんと実感して感謝と喜びになることを表わしている。イスラエルでは、父のことをアバといい、息子のことをベンという。あわせてエーベンとなり、それは「岩」という意味である。父と息子が一つになると「岩」のように強くなると言われる。親子愛を示している。

 神様と人との絆と強さが家庭の平和と幸せの基盤となる。家庭の土台がそこにあり、親子の基盤が平和を作る。そこに神を信頼する感謝と喜びが生まれる。聖書は「主において常に喜べ。」(フィリピ4:4)「いつも喜んでいなさい。」(テサロニケⅠ、4:16)と言っている。だから「思い煩うのはやめなさい。何事につけ感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)と勧める。信仰による喜びは恵として生活の中で形となって証しされることになる。

 第一に、祈る喜びである。人生には,苦しいときや、悲しいとき、試練のときがある。しかし、「主は近くにおられる。」と聖書は語る。また、主は最後の別れのときに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束されている。いつも主に祈り、教えられ、助け、導かれるのが祈りである。祈りは主が共におられる体験であり、喜びの泉である。クリスチャンは「すべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8:37口語訳)と告白できる。

 第二に、礼拝する喜びである。キリストを信じて、神の愛と恵を経験するときにその素晴らしい喜びは、神を賛美する礼拝を生むことになる。そこで礼拝で新しい主の言葉に養われいつも自己改革して成長していくようになる。礼拝する喜びが祝福の基になる。

 第三に、伝える喜びである。真実の喜びは自分だけの喜びに止めることはできない。全世界へキリストの喜びを伝える意欲を与える。罪の赦し、癒しの恵、失望からの解放の福音である。それが奉仕の喜びとして、生活そのものが喜びにつつまれる。

 キリストを信じる信仰は、喜びに満たされる経験である。その喜びは、生きる力となり、支えとなり、感謝と賛美に満ちあふれたものである。そして喜ぶもの同志が手を取り合い、喜びを分かち合い、新たな希望に生かされる。それがキリストの教会であり、神の家族である。

今週のみ言葉  詩篇 126章5節


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2007年9月2日の礼拝メッセージ