「新しい人生と神の国」  ヨハネによる福音書3章1-6節

 ヨハネによる福音書のテーマは「愛と命と光」であると言ってよい。聖書の語る愛と命と光は不変、即ち、永遠である。人間にとって生きることは愛することでもある。愛なくして人は生きることはできない。光なくして命は育たず、命なくして人は存在できない。愛も命も光も有限である。人の愛は、今日、愛しても、明日、憎しみとなる。愛が裏切られるとき憎しみに変わる。愛が深ければ深いほど、裏切られるとき憎しみも倍増する。

光は、光源を失う時、闇になる。身体の命が終わるとき人生は閉じる。人の生活はいつも変わりやすく、喜んでいるかと思えば、次には苦しみと悲しみが襲う。幸福と思っているが、日が変われば夢のように失せる。そしてやがて人の命は失われて人生の最後を迎える。そこには言葉に表わせない空しさと淋しさが残る。

仏教では死を寂静(じゃくじょう)ともいい、煩悩(ぼんのう)を離れて静かになると言うのだそうである。煩悩とは生活、即ち、心身を煩(わずら)わせる一切の妄念(もうねん)である。妄念は迷い、苦しむことである。そこで寂静で終わる。「諦(あきら)めが肝心(かんじん)」ということになる。諦めは解決でも、救いでもない。

 イエスは言われている。「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)キリストは人生の勝利を約束されている。また、ヨハネの手紙第一でも「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

だれが世に打ち勝つか。イエスを神の子であると信じるものではありませんか。」(ヨハネⅠ、5:4)正に、ここで「神から生まれた」ということはイエス・キリストを信じて新しく生まれ変わったこと、神の子として生まれたことをいっている。ヨハネ福音書の3章にニコデモとイエスとの対話がある。ニコデモはファリサイ派であり律法学者でもあった。その彼が、不思議な権威を持って教え、様々な祈りの奇跡を起されるのを見て「あなたこそ神と共においでになった教師です。それでなければそんなに不思議を起せるわけがありません、そうですね。」と伺ったところ、イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)と言っておられる。

ニコデモは“生まれ変わる”ことが分からなかった。そこで「母親から再び生まれてくることなんかできません。」と言っている。そこでイエスは「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国にはいることは出来ない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」と言われている。

 「新たに生まれる」ことはこころの回心を言っている。そして、「水」は洗礼を意味し、「霊」は心の中にキリストを迎え入れる。即ち、信じることである。それは神の命、臨在としての聖霊を内に宿し、新しい命、永遠の命、神の国に生きるものとされるということである。いろいろな問題がある現実の中で神の国を経験する、即ち、「見る」ことである。

 神に与えられる命は、真実の神の愛に生きることによって不変の安らぎと確信を得ることになる。変わることのない全能と愛に支えられて希望の光にいつも生かされることになる。人の命は体の消滅で消えるのでなく、復活の命としてその存在は神の国にあり続ける。イエスは、「わたしは甦りであり、命である。

わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と約束された。人の霊は、死に対して新しい霊、即ち、永遠の命に生かされる。だからこそ、移ろいやすく、壊れやすい現実の生活の中で活けるキリストと共にあって助けられ導かれて勝利を約束される。キリストを信じる信仰は、失われることのない愛と命と光として今、現実に神の国を体験させられ、その恵を見ることが出来るのがクリスチャンの人生である。

「わたしたちは、わたしたちを愛してくださるかたによって輝かしい勝利を収めています。・・・どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ8:37、39)


今週み言葉 へブル13章8節



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2007年9月9日の礼拝メッセージ