「キリストが約束される収穫の恵」  ヨハネによる福音書15章16節―17節

 秋は収穫の季節である。稲を初め、多くの作物は秋に収穫される。農作業は手間とひまがかかる。土地を耕し、種を蒔く。芽がでて、少し育つと除草する作業が待っている。わたしの幼少の頃は手押し除草道具で田圃を何百回も行ったり来たりしたものである。暑い夏の日差しの下で朝から晩まで働くのである。それは、働いている人にしか解らない苦痛である。

詩編126編には「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」と歌っている。働く涙は、苦痛と悲しみである。その苦痛を和らげ、悲しみを支えるのは収穫への確信であり、喜びとなる。 日常の生活においても、仕事や、学業などで本当に辛い思いをすることがある。しかし、やり遂げるときの喜びはその試練を乗り越えた人にしかわからない。

聖書では「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」(へブル3:14)といっている。信仰による希望が、今現在の試練や困難を克服させ、勝利に導くことを約束している。「キリストに連なる者」とは確かに人生の終局的なゴールとしての永遠の命の約束である。その約束は現実の今において、また主が生きて働き、信仰に答えられる恵でもある。

 クリスチャンとしてキリストが一人ひとりを「召し」て、「任命」してくださった目的の理由は「実を結び、実が残る」ためである。そのために、キリストにあって「願い祈ること」を実現すると約束されている。この約束が実現するために「互いに愛し合って」キリストの御心が生かされ、キリストに喜ばれる証をするように命じられている。愛し合うことは、祈りあうことであり、主のみ心と栄光が表わされることを願う祈りでもある。そこで、イエスが主であることが証しされる。そこでは証しの収穫は約束されている。

 第一に、祈りの生活における実である。リバイバル新聞の報道によれば、草加神召教会の天野弘昌牧師は去る6月に多発性骨髄腫で最悪余命半年のと診断された。その後、教会でも断食祈祷で祈りの戦いが続けられた。8月の精密検査で腫瘍の完全消滅が確認されたと言うのである。ハレルヤ、主は生きておられる。「行って実を結ぶ」との約束が現実の与えられた事例である。

 第二に、み言葉による実である。み言葉に親しんでいると時として、試練や、戸惑いのときに親しんでいる聖句が力となり、命として支えと希望となる。不思議な結果を与えることがある。私が神学校に入る前に修養生として高知市で開拓伝道を手伝うことがあった。伝道者の留守をひとりで預かることになった。1人の年配の人がお金がないので仕事をさせてほしいと来た。聞けば病み上がりで、仕事がなく、子供が3人いると言う。そのとき500円ぐらいしかなく祈った。そうしたら「主の山に備えあり」と言うみ言葉がひらめき、お金と二升ばかりのお米すべてをあげた。残りは10円、それで南京を買い、毎日それだけ食べた。いよいよ日曜日何もなくなった。日曜学校、礼拝と御用をした。いつも昼食は遠いところから来る姉妹たちが作って一緒に食べていた。姉妹たちはご飯を炊き始めた。確かに米櫃は空であった。5升も入る米櫃がいっぱいではないか。このことから私の人生はどんなことがあっても、「神は必要を備えられる」と言う確信を与えられるようになった。み言葉への信頼の収穫であると言える。
そのとき不思議な平安が与えられた。

第三に、奉仕による実である。ある姉妹は結婚後出産したが不幸にも赤ちゃんが病気で2年で他界した。その苦悩の中でキリストに導かれた、情緒不安に陥って苦しんだが心の中で信仰は育ち、今は二児の母である。礼拝を始めすべての集会に親子で一日も休まない。路傍での伝道にも熱心で道行く人にキリストを伝える。

最近、この人の熱心なビラの誘いで青年が求道している。この青年は「わたしはこの方に誘われて教会に来れた」と感謝している。主の約束される収穫の実が、喜びとなり、感謝となる。

 信仰は、今の時に生きて証しされる祝福となる。それが人々への証し、収穫である。


今週のみ言葉  イザヤ書 53章11節
 「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」


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2007年9月16日の礼拝メッセージ