「試練の中の希望に生きる」   ロマの信徒への手紙5章1-5節

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。」(イザヤ38:17)

  人は苦難の中でその人柄がよくわかると言われる。苛立つ人、解決策をあたふたと探し回る人、すぐ諦める人、どうして苦しまなくてならないのかと嘆いているばかりの人、落着いて対策を考える人などがいる。聖書は「いろいろな試練に出会ったときは、この上ない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)と言っている。そして「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」(ヤコブ1:12)とも言う。

イザヤ書38章17節では「苦しみ」は「幸福」であるとまで言っている。この「幸福」と言う聖書の言葉は「シャローム」である。シャロームにはいろんな意味がこめられていて「平和、無事、完全、繁栄、幸福」などに訳される。実は、上記の訳は口語訳であるが、共同訳では「わたしの受けた苦痛は、平和のためにほかならない。」と訳している。平和であることは、幸福であり、繁栄のしるしでもある。

 ここでは「困難」や「試練」が、喜ばしくも、幸福であると言い切っている。換言すれば、「試練」は「財産」であると言うことになる。「財産」は象徴的に、生活不安から解放する。聖書の言う「財産」は金銭的なことより以上に「強い精神」、どんな試練にも立ち向かい、克服する「精神」である。その精神とは、正に、「信仰」にほかならない。

ロマ書5章では「苦難をも誇りとします。」と言う。何故なら「苦難は忍耐を、忍耐は錬達を、錬達は希望を生むということを、そして希望はわたしたちを欺くことがありません。」という。「困難」は「忍耐と錬達と希望」となという。何がその変化を与えるのであろうか。それは「聖霊による神の愛がわたしたちに注がれている。」こと、神に愛され、守られていることを言っている。キリストを信じる信仰が、苦難を希望に変える。信仰に裏付けられた希望は、欺かないと言うのである。信仰による「希望」が「困難」を誇りとし、幸福の鍵とする。そこに困難の中で平安が生まれ、平和があることになる。

 アブラハムはカルデヤのウルで繁栄と豊かさの中にいた。しかし、あるとき、思いもよらない自然現象で生活基盤が失われた。途方にくれるアブラハムに神の声がかかった。わたしの示す地に行きなさいと言うものであった。その試練の中でアブラハムは神様の声を聞いたのである。その途中、ユーフラテス川の上流ハランに定着して生活を営んだ。ある意味で生活は安定してきていた。しかし、神は「親族とはなれて、更に、示した地に行きなさい。」と言われた。

そして、安定の中で決断しなければならいというのである。そこには信仰の第一歩から、次の二歩に進む事を示している。そして、約束の地カナンにたどり着いても次々と試練が続く。しかし、アブラハムは、迷いながらもいつも神様の導きに従う。安定と試練、迷いと不信の連続の中でアブラハムの信仰は訓練されていく。そのときハランで聴いた神の約束「大いなる国民にする」と言う約束が、希望となり導かれる。最終的にひとり子イサクを「モリヤの山で犠牲にささげよ」と言う試練の声を聞いて、苦悩の末、その神の声に従う決断をする。理解しがたい試練の前になお神に従う決断をする。そこで、神自ら解決の道を備えてくださるという答えに出会うことになる。

 人生には試練の中での勝利、安定の中での飛躍、意味のわからない苦汁の中にも、どんな時にも神は最善をして下さるという信仰、神に従うことが勝利の道であることを教えている。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。輪つぃを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13)

「わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:37)   

今週のみ言葉  イザヤ書38章17節(口語訳)



トップページへもどる       礼拝メッセージのページへ      このページのトップへ

2007年9月23日の礼拝メッセージ