「永遠に存続する住み家」  コリントⅡ、4章16節-5章1節

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントⅡ、4:18)

 さる水曜日、神学校の同級生であったわたしの友人が召された。46年間奉仕をしてきた。彼は、百合の花が好きだった。野の百合は誰も来ない谷間にひとりで美しく咲く、誰に見られるのでもなく精一杯美しく咲く、その姿に引かれると言うものだった。息子が挨拶で父から聞いたその話に感動して、誰に見られるのでもなく精一杯生きることにしていると語っていたのが印象的であった。彼は、どんな時にも神により頼み、待つ姿勢を貫いた。自分で悩んで捜し求めるのでなく、主が、道を備え、門を開き、備えてくださることを確信しているようだった。

 すべてのものには終わりがある。聖書は「見えるものは過ぎ去る」と言う。形あるものはすべて過ぎ去り、消えるときがくる。それは儚(はかな)く、空(むな)しい。しかし、「見えないものは永遠に続く」という。永遠に続くことは、消えることなく存在すると言うのである。人間はいつかは死を迎える。生命の消滅である。肉体の終わりである。一方、命は、見えない。その見えない命、即ち、魂は、存続するゆえに死の意味を問い、断絶を予感して、悩み、悲しみ、苦しむことになる。正に、それは地獄である。しかし、聖書は「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6:23)と約束している。

 聖書は、わたしたちの体を「地上の住みか」と表現している。壊れ、消えていく住み家に生きることは喜怒哀楽を繰り返しながら終わりを迎える。キリストに出会うとき、見えない永遠の住み家を知らされることになる。本来、人間は、「神は、永遠を思う心を人に与えられ。」(コレヒトの言葉3:11)ている。なぜなら「神は、その保証として“霊”を与えてくださっている」(コリントⅡ5:5)という。ここで言う“霊”は、人の魂を言う。見えないがすべての人に“魂”がある。現実の移ろい行く、虚(むな)しい生活にあってもいつも心に本当はこんな人生であってはならないと言う「憧れ」や「幸福」を求める。そして人生の終わりである「死」を思うときに、死で終わらない「永遠」を思う。

 イエス・キリストは「「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われている。(ヨハネ11:25)神のみ国とは人のあこがれる至福の国である。現実の人生は、死で終わる。「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6;23)とは、死は罪よってきたと言っている。ここで言う“罪”は“神から離れる”こと“神を信じない”ことによって、神との“断絶”を意味している。神の心を失うときに人は真実に正しく生きることはできない。キリストは神の愛を持って人を救うために、人に現実の罪を教え、真実の神の愛を示し、罪悔い改めるものの罪を赦し、交わりを回復された。それが、キリストが十字架に掛けられた出来事である。

 キリストを信じて神の心みに生きるものとなるとき、見えない神の国が見えるようになる。「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(コリントⅡ5:7)現実の中で見えないが信仰によって永遠に変わらない住み家「神の国」を生き、現実を「神の国」とすることを喜びに生きることになる。そして、やがて「死」を迎えるときにも永遠の住み家「神の国」に生きる確信に満ちあふれ、感謝と喜びをもって「死」の川を越えるのである。

 既に、神の国に行った神の家族と共に感謝と賛美をささげる日々新たな祝福のときを過ごすことになる。信仰の心が家族と共にいつもいる喜びとなる。キリストを信じるものは、現在も未来もキリストと共にあって朽ちない「神の国」に生かされることになる。栄光、主にあれ!!

今週のみ言葉 へブル人への手紙 13章8節




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2007年9月30日の礼拝メッセージ