「生けるキリストの福音」  使徒言行録4章29-31節

「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないでいられません。」(使徒4:20)

 今日の社会問題の一つに「賞味期限」があります。このたびは“伊勢の赤福”が問題になりました。300年も続いた老舗の違反は衝撃です。そうというのも、わたしはいつもこの赤福をお土産に買うのです。賞味期限は食品の死を意味する事になります。商品の価値がなくなることを意味します。生きていることは、いのちを生み出すことです。生きていることは希望の証しであるのです。すべてのものは時が過ぎると「命」を失い、枯れて、死を迎えます。死は、消滅であり可能性をなくすことでもあります。生きているいのちには新しい未来があり、輝きがあります。生きていることに価値があることになります。

 人間には本能的に「嬉しい」ことは他の人に伝えたくなるものです。実は、始めに記している「見たこと聞いたことを話さないではいられない」と言うのは聖書の使徒言行録に出てくる記事です。そこでは生まれながらの身体障害者で歩行困難で、もの貰いをしながら生活している不遇な男の人が、イエスの弟子ペテロとヨハネの信仰の祈りで癒され、立ち上がって歩きだすということが起こりました。そこで多くの人々がイエス様を信じるようになったのです。イエス様に反対する人々の脅迫が起こり弟子たちは体制批判と社会騒乱で逮捕されるのです。体制の力の前で恐怖にさらされながらも、ペテロとヨハネは毅然と「イエスのされた恵みの出来事の素晴らしさ」を、確信を持って断言しているのです。苦しみ、悩む人をイエスはどのようなときにも見放すことなく救い、癒し、助けられる現実を見て、弟子たちはそれを隠し、否定することを迫られても従うわけには行かなかったのです。

 人は真実の喜びに出会うとき、その喜びを隠すことは出来なくなるものです。福音とはイエス・キリストの出来事、即ち、キリストが、人が神に立ち返る道を示してくださった出来事にあるのです。それは過去に起こった出来事ではなく、今も、イエスを信じることによって体験する恵なのです。聖書は確かに「古文書」であるかもしれません。しかし、聖書は神の言葉として、いまも信じるものと共に働いてキリストの命を伝えるのです。「イエス・キリストは今も生きていて、きのうも今日も,また永遠に変わることのない方である。」(へブル13:8)と聖書は証言しています。確かに、キリストを見ることは出来ないのですが、「聖書を見ればキリストがわかる」といわれますように、聖書の言葉を読むことによって生けるキリストに出会うことが出来るのです。聖書には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…言葉は肉となって、われわれの間に宿られた。」それがキリストであるのです。キリストは言葉として信じる人と共に今も働き、共に歩まれるのです。「わたしはいつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)とキリストは言われています。キリストの言葉があるところにキリストはおられるのです。そして現実の中でキリストの言葉、愛の言葉、救いの言葉によって罪許され、神の子として恵にあずかる体験を与えられるのです。キリストの救いは哲学や宗教でもなく「命」であり、永遠のいのちとしての神の国を現在に体験する祝福であるのです。神の言葉のあるところに苦悩、孤独、混乱と迷走の人生を、平安と交わり、勇気と希望、喜び、感謝の溢れるものに変えられる力があるのです。「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:7)と約束されているのです。キリストは今も生きていて共にいてくださる救い主であるのです。

今週のみ言葉    「思い切って大胆に・・・出来るようにしてください」使徒言行録 4章29節



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2007年10月14日の礼拝メッセージ