「真実の神信仰と祝福」  イザヤ書44章9-20節

「偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、何の役にも立たない。」(イザヤ44:9)

 宗教は、いろいろとあるが大きく分ければ2つになる。人の作った宗教とすべての根源者である創造主を神と信じる宗教である。戦後の混乱期に貧乏、暴力、病気の救いを説いて多くの新興宗教が生まれた。今は、満ち足りた豊かな生活となっている。年金の問題はあるが、高度な医療も安い料金で受けられるようにもなっている。教育も進み、科学的にものを考える世の中である。

しかし、このところ信者の集団暴行で死者を出して集団逮捕される紀元会という宗教がクローズアップされている。そのキャッチフレーズは「薬で治すより、聖水で治す」というもので何でも聖水と言われる瓶詰めの水を一万円で売るといわれている。世界最高の医学の環境にある社会でこのような宗教が後を絶たない。小説の世界でも丹羽文夫の「蛇と鳩」というのがある。

新興宗教の癒しに目をつけて主人公がいろんな新興宗教を調べて紫雲現世かいという宗教を作って稼ぐ話がある。また最近ではビート・たけしの「教祖誕生」と言う癒しを売り物に稼ぐ手作り宗教の話である。滑稽な中にも、人間の哀れが漂い、騙されていながら本当に癒しも現れることもあるという物語である。人の弱みを巧みに利用する悪賢い手作り宗教である。聖書は「偶像を造るものは皆むなしい。」と言っている。

人間は不安や苦しみあうときや、何かの期待感を持つときに自分を見失うことになる。国道を西宮に入ると以前「がんでも治る○○教」とでっかい看板があった。末期がんの人であれば縋りたくなるともいえる。そこで「使ってもへらないお金」などといわれると飛びつくことになる。手作り宗教と詐欺まがいとは区分けが付かないのが現状である。

 そもそも人間が考え作る神様は、都合が悪くなれば消えるようなものである。聖書は「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)とある。人が神を造ったのでなく、神が人を造られたのである。すべてのもの、すべての命の根源は創造主なる神であるというのである。

それは人から出たのでなく、神が人に道理を表わされることによって知ることになる。それを「啓示」と言う。真実の神は、永遠に変わることのない方であり、全能である。聖にして愛なる方である。そ
して「神はご自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)とあるように本来、人は神のきよさと愛に生きるときに真実に人として生きることになることを示しておられる。

真実の神は、人を生かすために自らのすべてを与える神である。人を騙すのでなく、人を救う神である。人から奪うのでなく、すべてを人のために与える神である。打算でなく、人を愛するゆえにすべてを与える方である。その愛をもって人もまた人を愛するときに真実の人の幸せが約束される。真実の宗教は人を健全に生かし、愛し合う勇気を、力を信じるものに与える方である。

その神の愛は、人となられた神、イエス・キリストにおいて示されている。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。…神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネⅠ、4:9、10)

キリストによって神のすべての性質があらわされている。「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っているのです。」(コロサイ2:9)キリストは言われている「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方(神)を見るのである。」 (ヨハネ12:45)

そして「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ父(神)のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)と言われている。

今週のみ言葉  使徒言行録 4章12節



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2007年10月21日の礼拝メッセージ