「共に生きる約束と力」   ルカによる福音書10章25-37節

「互いに重荷を担いなさい。キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤの信徒への手紙6:2)

 人の人生は死で終わる。死を悲しみ悼む。「悼む」とは「人の死を悲しみなげく」と言う意味である。「人間は死に至る存在である。」とハイデッカーは言っている。「死に向かって生きる存在ともいえる。」人は「嘆きと悲しみ」に生きる存在ともいえる。仏教では「諸行無常」と言ってすべては空しく、儚いものと言う。「罪の支払う報酬は死です。しかし,神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)

ここでの「永遠に命」は、とりもなおさず「天国に生きる」ことを意味している。「罪」の結果は「死」であると指摘している。「罪」は、法律を破ることである。そこで、ルカの福音書の10章ではひとりの律法の専門家がイエス様に「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と問うている。「何をしたら」とは、人が守るべき約束、「律法」である。ここでは「律法」とは神様の「御心」、即ち、神の法律である。

そこでイエス様は、律法の専門家に律法にはどう書いてあるのかと聞かれた。当然、彼らは知っている。「神を愛し、隣人を愛せよ。」と答えた。イエスは「それを実行するようにと言われた。」律法の専門家は「隣人とはだれのことですか。」と聞いた。

そこでイエスは、よきサマリヤ人のたとえをもってその真意を語られる。ある旅人がエルサレムからエリコにくだる途中で強盗に会う。打ちのめされて持ち物を略奪される。半死半生にされて気絶しているところに、宮に使えているレビ人、そして続いて同じく宮で使える祭司が通りかかる。二人とも見て見ない振りをして見過ごしていった。

そしてサマリヤ人が通りかかり、憐れに思い、傷の手当てをして、ロバに乗せ、宿場まで行き、宿場の主人にお金を渡して解放を頼み、費用が足らなければ帰りによって払うから十分手当てをするように依頼した。この三人の内、だれが傷ついた人の隣人か。「その人を助けた人です。」と答えた。イエス様は「あなたもその通りにしなさい。と言われた。

人が生きる天国の約束、即ち、律法の真意が示されていると言える。神の律法を知り、神に仕えていながら、現実では苦しんでいる人を見ても無関心でいること、即ち、「愛」を失っていては「永遠の命」、「神の国」に生きることはできないといわれている。

しかし、厳密には人は、過ちを犯しやすく、自己中心になりやすく、極端に言えば「罪」を犯さないでは生きられない弱さを持っている。だからこそ「イエスキリストによる永遠の命」即ち、「私たちはこの御子(キリスト)において、その(十字架の犠牲)血によって贖われ、罪赦され」(エペソ1:7)て神の国に生かされるようになった。

キリストの十字架は神の愛を表す。キリスト信じ、キリストに生きることはキリストによって表わされた「神の愛」に生きることである。そこに神の臨在を経験する。神のみ国、天国が現実となる。

「いまだかって神を見たものはいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネⅠ、4:12)神の愛とは、「無関心」でいられないことである。

「共に重荷を荷う」ことこそ人がひととして生きることである。それは永遠に変わらない真理であり、人の道、律法である。神の国は「神の愛」に生きる人に約束されている。今を、永遠の命に生きてこそ、死を乗り越えて神の国、永遠の命に生かされることができる。これがキリストの約束される永遠の命への道である。

 愛のあるところに神がいまし給う。そこに希望がある。変わることのない平安がある。愛は恐れを取り除く、生きる「力」となる。



トップページへもどる       礼拝メッセージのページへ      このページのトップへ

2007年11月4日の礼拝メッセージ