「神の約束と祝福のしるし」 民数紀 9章15節―23節

 「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木、その枝は石垣を越えて伸びる。」(創世記49:22)この言葉はヨセフの父ヤコブの祝福のメッセージである。ヤコブ一族は、ヨセフの数奇な人生の中で、飢饉に苦しみエジプトに逃れた家族を救うことになる。ヨセフは兄弟に捨てられるが、神に愛されてエジプトで試練と苦難の中でいつも守られ、いつしかエジプトの宰相にまでなる。

兄弟の憎しみの相克を越えて家族を救うことになる。やがて、ヤコブが死を迎えるときに息子たちを祝福しているのがこの言葉である。それは、ヤコブが祖父アブラハムから継いだイスラエル民族への祝福でもある。

 イスラエルは、ヤコブの別名である。ヤコブは双子として生まれ、兄エソウのかかとをつかんで生まれたことから「かかと」と言う意味であり、また、語根が「だます」と言う言葉であるところからか、ヤコブは、ずるく、抜け目なく、霊的なものに無関心な兄と父を欺いてまで長子の特権を奪うのである。

やがて自らもだまされることに翻弄されながら家族をもうけ、岐路に立つとき、ヤボクの渡しで祈っているとき夜通し神と争い、もものつがいを打たれて、祝福されて名前を「イスラエル」と変えられる。その意味は通俗的な意味は「神と争う」と言われているが、これは「神が支配される」「治められる」と言う意味であり、やがて「神に選ばれた祝福された民」「契約の民」の名称となる。

高齢になったヤコブは確信に満ちた信仰を持っていた。ヤコブの人生は人間の物欲に振り回される罪深い自己中心的なものであった。しかし、神はこの罪深いものの上にも恵み豊かに臨み見事に変えられアブラハムの祝福を受け継ぎ、その息子ヨセフにも変わらない神の祝福の約束を語っている。やがて400年の歳月がたちモーセによる出エジプト、神の民の解放のときが来る。

そのときにはヨセフの棺が先導して脱出することになる。それこそは神の約束の命、泉に根ざす若木は、約束の地に実をむすび、「垣根を越える」即ち、世界の祝福の基として伸びるということが現実となるのである。しかし、現実に繰り広げられる神の民の歴史は約束と試練、苦難と救いを繰り返しながら神に真実の解放の意味を告げられることになる。これは、また、一人ひとりの人生の歩みでもある。弱く罪深い、失敗と挫折の連続のような人生に生きながら、神を信じるものにとって神の祝福の約束とは何であろうか。

このヨセフの祝福は、出エジプトの出来事によって明らかにされている。頑強なエジプトの権力に対して神は不思議な奇跡をもって解放される。脱出するイスラエル人を強大な軍事力で追うエジプトを止めたのは、主の臨在を表わす雲の柱であり、夜は、火の柱として彼らを守り、紅海で止めの勝利を成し遂げられた。モーセの祈りと神の臨在が勝利に導いたのである。そこ後、40年に亘るシナイの荒野の旅を守られることになる。

そのときイスラエルを導いたのが「神の臨在の雲の柱」であった。出エジプトから50日目にシナイでモーセは神の律法を受ける。その中心的な事業に礼拝する場所、幕屋の建設を告げられる。そこに主の臨在の象徴として雲の柱が留まることになる。(出エジプト25:8)主の臨在を表わす雲の柱が移動するときに従い、留まる時には動くまでとどまり従ったのである。神の祝福の約束は、神の臨在にある。

いかなる時にも、主の臨在のあるところに祝福の約束としての勝利と解決と希望が約束されている。主イエス・キリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)ヤコブによって祝福された約束は、「垣根を越えて」即ち、イスラエルの人々を越えてキリストを信じる新しい神の民の上にも豊かな実を結ぶと約束している。

現在の幕屋は「キリストの教会」であり、聖書の言葉に生かされて、神の愛が生かされるところに神の臨在があり、神の約束される祝福の導きと勝利の実が結ばれることになる。共に祈りあえるところに神の臨在がある。

今週のもことば  ガラテヤの信徒への手紙 5章25節



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2007年11月11日の礼拝メッセージ