「キリストの道と輝く日々」 ヨシュア記3章1-17節

 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内に、いつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)

 キリストを信じることは、キリストの言葉を受け入れることにある。聖書に書かれている「わたしにつながっており」と言う言葉と「内にある」と言う言葉は、聖書の原典では「メノー」と言う言葉であって「とどまる」「住まう」と言う同じ言葉が使われている。それはキリストの言葉に生きることを意味している。キリストの言葉に生きるときに「願うことは実現する」と約束している。

 今日ほど社会の変化の激しいときはない。生活の向上と共に技術の革新が、生活を破壊するという逆の現象が起こっている。そのとき変革の波に翻弄(ほんろう)される取り残された弱者への思いやりの対応は政治に責任がある。年金の不始末、福祉の切捨て、利権がらみの小手先の農政、これらの事で官僚、政治、経済界の虚構的劣化の病弊が浮き彫りにされてきている。

しかし、人は社会の変革に関心を持つと共に、結局は、一人ひとりの家庭を、人生を生きていくことは個人の努力による。その一人ひとりの真実の人間観が土台となって社会を変えていくことになる。聖書は、一人の人間の尊さを示している。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払いえようか。」(マタイ16:26)一人の人の尊厳と幸せを聖書は教えている。

そして、共に尊さと幸せを生きるために人は愛によって生きることになる。愛こそは「人」を生かし、「人々」を生かすことになる。キリストの道は愛の道である。神が、御子キリストを犠牲にして愛を証しされた。そこに真実の神の無私の愛がある。まさに無私とは神の聖さに裏付けられた愛である。キリストの愛によって助け合い、いたわり、思いやり、教え合うところに希望が生まれる。政治の理念にこれが生かされて社会は本当の希望をもてることになる。そして、一人ひとりの家庭が、人生がこの愛で生かされるとき神の輝きを放つ経験となる。

 ヨシュア記の3章にエジプトよりのがれてきたイスラエルの人々が、約束の地カナンに入る直前にヨルダン川をわたる記録がある。モーセが召天し、後継ヨシュアが指導者となり、神からの信任を得ていた。「モーセと共にいたように、あなたと共にいる」と言われている。神が共におられることは、神の言葉が共にあり、神の心を心として信じ従い、実行するヨシュアであったことを物語っている。

まずヨシュアは「自分自身を聖別せよ」と言う。聖別とは、「神の思いに徹する」ことにほかならない。神様の御心に生きること、その言葉に生きることである。主は「ヨルダン川を渡るに当たり「神の言葉、“契約の箱”を先頭に行進すること、行進がわたり終えるまで川の真ん中で立ち止まること」を命じられた。これは人生の勝利の約束への道を象徴的に物語っているといえる。クリスチャンにとって現実の様々な生活の闘いへの輝かしい勝利の道筋である。

現実の闘いへの始まりは「自分自身の聖別」にある。神の御心を確信する、堅く信じること。神の味方、神が味方される確信を持つことである。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ8:31)次に「神の言葉に従う」信じることが、実践されてこそ約束が実現することになる。

そして、禍の只中に「神の言葉がとどまり続ける」間に、人々がヨルダン川を渡り終える様に、神、そのお方が働き、守られる。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の生んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15)キリストへの信仰の心がある限り、未来があり、希望がある。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を治めています。」(ロマ8:37)

今週のみ言葉  ロマ書   5章2節



 「ライオン」会社、は磨きや洗剤の製造する会社、創業者 小林富次郎

 株式会社ライオンの創業者・小林富次郎は、若いときに神戸のある会社に勤め、子会社に責任者として出向する。フランスから機械を輸入して一年分のマッチの材料となる材木を仕入れて川に浮かべてためていた。
しかしある時、何十年に一回の洪水が発生した。川が氾濫して材木は流れ、下流の橋を次々に破壊してしまった。

賠償責任問題となり、その多大な負債を背負うことになった。
彼はもう死ぬしかないと追い詰められ、死に場所を探した。
ある橋の上に来て、今まさに飛び込もうとしたとき、一つの聖書の御言葉が心に響いてきた。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると,これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」へブル書12:11節

突然思い出したこの御言葉は彼がかつて洗礼を受けたときに牧師先生から頂いた御言葉であった。
彼は「神はこの困難を既に見通しておられたのだ。あらかじめその試練にそなえて、今御言葉をわたしに下さったのだ。このピンチは、わたしを強くするものだ。ピンチだけれども、チャンスでもあるのだ。」と考えるようになった。
「わたしへの試練は、わたしを鍛えて、成長させるためである」と思いなおし、
「死ぬ必要はない。神の力を信じていこう」と決心した。

その後、私財を全部整理し、会社も縮小した。その会社は後任に任せて、ゼロから出発しようと決心した。
40歳を過ぎていたが、東京で小さい石鹸工場を始める。1896年のことである。
それが今日の「ライオン」と言う会社である。試練に遭わなかったら地方のマッチ工場で終わっていた。
試練に遭うことによって素晴らしい神の祝福を得ることができた。感謝。




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2007年11月18日の礼拝メッセージ