「答えられる祈りの恵」 ヨハネ14章11―14節

 人にとって“喜ぶ”こと、楽しいことは生きる張り合いであり、生き甲斐でもある。ウエストミンスター教理問答書の最初の「人間の主な最高の目的は、何であるか。」という問に、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を全く喜ぶことである。」と答えている。生活には色々な楽しみがある。楽しみは欲望を満たすことでもある。欲望は、物質的であれ、精神的であれ、自分以外のものを取り込むことによって満足することである。

言い換えれば、自分以外の人やものによって満足して喜び、楽しむことになり、他の人やものの犠牲によって喜び、生かされていることになる。そこで、自分が満足しようと求め、得られないときには争うことにもなる。あるときは傷つけ、裏切り、罪を犯すことになる。果てしなく人は罪深いといえる。

 神様を信じることは、神様を信頼することである。キリストは「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると,わたしが言うのを信じなさい。」(ヨハネ14:11)と言っておられ、また「わたしを見たものは、父(神)を見たのだ。」(ヨハネ14:9)と言われてキリスご自身が神であられることを証しされている。キリストは生涯を通して“神の愛”と“恵”(ヨハネ1:14)、人を真実に幸せに生きる“真理の道”を示しておられる。キリストを信じることは神を信じることであり、キリストの“言葉”と“教え”に生きることである。言い換えれば、自分の欲望を中心に生きるのではなく、キリストの言葉を中心に生きることになる。キリストの言葉は、神の御心であり、神の御心を目的に生きることになる。

それはとりもなおさず、神様の恵みの輝く人生を歩むことである。神に満足していただく、神に喜ばれる生き方である。「何が、主に喜ばれるかを吟味する。」(エペソ5:10)ことになる。そして「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人に信頼される。」(ロマ14:18)ことになる。即ち、キリストが「わたしが新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と言われている“愛”とは、キリストが命を投げ出して十字架で死なれた“犠牲の愛”を言っている。

ここで神は、人が神の愛によって生きるときに真実の幸せに生きる希望を与えておられる。「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行い、また、もっと大きな業を行なうようになる。」(ヨハネ14:12)とキリストは言われる。混乱と争いの絶えない日々のなかでも、また、理解できない試練や苦難の中でも、“キリストにあるなら”どんなことでも「キリストの名によって願う」(ヨハネ14;13)ことよって解決が与えられ、回答をくださると約束されている。

この“願う”ことは祈りであり、祈りのあるところにキリストは共にいて助け、導き、慰め、励ましてくださる。クリスチャンの喜びは「祈る」ことができることであり、祈りこそは、生活を充実させ、“喜び”に満たしてくれる素晴らしい力と命である。キリストを信じるところには、祈りがある。祈りは、試練や困難の解決の力である。祈りは苦しみを喜びに変え、祈りは悲しみを楽しみに変える。祈りは悲しみや試練を神の栄光の輝きに変える恵の力である。祈りの秘密は「イエスの名」にある。イエスの名はイエスの執り成しの力にある。

「キリストは常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(へブル7:25)



今週の聖書  「絶えず、目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6章18節)


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2007年11月25日の礼拝メッセージ