「生ける神キリスト」   ヨハネによる福音書1章1-18節

 日本ではだれでも死ぬと仏になり、神様になると思うようである。実際、神道のお宮には業績のあった人が祀られている。仏教では仏陀を初め如来から菩薩まで仏像を拝み
、死者の位牌を拝む。また、自然の山や滝、大木や岩などに注連縄(しめなわ)を張って礼拝の対象とする。

昔から「何様がおわしますかは知らねども、ただ有難さに頭うなだる。」と言う。そして「いわしの頭も信心から」と言う言葉さえある。それは、何か知らないけれども、何かが祀ってある、たとえ「いわしの頭」であっても信心する気持ちがあれば、なんでも神様になるという意味であろう。

簡単に言えば、仏教ではすべてのものは自然に帰りまた姿をもって帰って現れる(輪廻)という。その教えと自然への畏敬による自然崇拝が融合して独特な宗教感情が日本には生まれてきた。そこで何でも宗教の対象、即ち、何でも神様になることになる。だから俗に神道には教義(きょうぎ)(教え)はないという。

 聖書は「言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」とある。(ヨハネ1:1)そして「万物は言葉によってなった。」(ヨハネ1:3)とある。神様は万物を言葉によって創造されたのである。そこには「言葉」、即ち、理性があり、存在の連鎖と原理がある。すべてのものは偶然の存在でなく、一貫した理由、訳(わけ)がある。その「言葉」こそは、創造の神の「命」であるという。「(この)言葉のうちに命があった」(ヨハネ1:4)と続く。

この言葉、命のメッセージこそは「神は愛である」(ヨハネⅠ、4;8,16)ということである。森羅万象は「神の愛」を表わしている。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩篇19:1)「物語る」とは、神の御心を教え、伝えることである。「栄光を物語る」即ち、神の嘉納(かのう)(喜び、受け入れる)される。「よし」とされることでもある。それこそ神の本質である「聖」である。すべての被造物は神の御心「聖なる愛」の内にあるといえる。「言葉」の内に「命」としての「愛」が栄光として輝く、この「命は人間を照らす光」であると続く。

「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)と言う。暗闇は神の栄光に反対するもの、即ち、「暗闇は罪」である。「罪ある人間」は、この光を理解できないと聖書は示している。神を理解できない。神を受け入れないところに闇がある。暗闇は混乱と騒乱、人それぞれが自己を中心に自己願望に振り回される暗闇の世界である。

 神は、この悲劇的な人の罪の現実を救うために「言葉は肉(人間)となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のであった。この出来事、神が人となることこそクリスマスである。そして聖書は「わたしたちはその栄光を見た」と続き、キリストによって「理解できなかった神」を知ることができるようにされたのである。「神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神(キリスト)、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)キリストは言われている「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)と。

キリストは、神としてその愛を示された。人類の罪の暗闇を救うために、神の御心を示された。理解されず、受け入れられず、神に反逆し、神を殺すという出来事を通して、なお人を赦す回復と和解の愛を十字架の上で示された。神の栄光、神の喜び、それこそは人が真実に幸せに生きる道を示すことにあった。そのためにキリストがお生まれになった。

神は、父と子と共にあり、その交わりの使命を聖霊として今日、なおキリストの霊として働きかけ、とりなし、助け続けてくださる方である。われらの神は、父と子と聖霊の三位にして一体なる方である。(マタイ28:20)この交わりの神こそは「愛なる」真実の神である。だからこそ「平和の神」(ロマ15:33)「希望の神」(ロマ15:13)であると告白するのである。クリスマスを心から讃え、迎えようではないか。



今週のみ言葉    マタイ1章23節

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2007年12月2日の礼拝メッセージ