「クリスマスと十字架」 ルカによる福音書2章1-7節

 「クリスマスと十字架」と言うテーマは、言い換えれば「キリストの誕生と死」ということになる。キリストの生涯は決してフイックション(創作物語)でなく史実に基づくことであるといっているのがルカによる福音書の2章の記事である。ルカの職業は医者であると共にすぐれた歴史家でもあった。イスラエルがローマ帝国の植民地の時代、皇帝アウグストゥスが徴税のための人口調査を実行した。

マリヤとヨセフが故郷ベツレヘムに登録のために出かけた時、イエスは誕生した。この人口調査がシリヤの総督であったキリニウスの責任で行なわれたと説明が続く。そしてこの地方では始めての住民登録であったという。このような史実の裏付けを背景にイエスの誕生の物語は続く。その時、まだ許婚であったマリヤは、既に身ごもり夫ヨセフと共に出身地であるベツレヘムに旅して行った。小さな町ベツレヘムには多くの人々が登録のために帰ってきた。

聖書は彼らには「泊まる宿」が見つからなかったといっている。ここでの宿屋はカタルマティという言葉が使われていて、今でいう民宿のような善意で泊まらせてあげるような「家、部屋」のことであった。(ルカ10章ではパンドケイオン「宿屋」)イスラエルではこの時代、普通の庶民の家は一間で寝起きして家畜も一緒に部屋の片隅に寝かすというようなものであった。

宿と言うのはルターが聖書を訳したときに「宿」にしたことからであるといわれている。ヨセフたちはそのような部屋さえも借りられずおそらく家の裏にあった洞穴の家畜小屋に泊まったと考えられている。洞窟の小屋で飼い葉桶が吊るされて安全に幼子が寝かされたといわれている。 

聖書は「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシヤである」(ルカ2:11)イエスはメシヤとしてお生まれになったという。ユダヤの人々にとっては「メシヤ」は、また「王」と重ねあう存在であった。

 イエスはメシヤ、王の王であるのに、その誕生は家畜の小屋であった。王であれば人々は最高の敬意を持ってその尊厳を崇めることになる。しかし、その家族は人の住む家にも迎え入れられずに洞窟の家畜小屋に泊まらなければならなかった。これはイザヤが「この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられる」(イザヤ53:2)といった預言の言葉のように受難のメシヤ(キリスト)を物語り、その誕生は十字架の死を物語るものであった。

 マタイによる福音書によれば、イエス・キリストは母マリヤがヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることがわかった。ルカによる福音書ではマリヤに「聖霊が降り、聖なる神の子を宿す」と神の言葉が告げられる。

マリヤはこの言葉に戸惑い、苦しむ。マリヤが「私の様なはしためにどうしてそんなことがありえましょうか。」と問いかけるときに、み使いの言葉は「恐れるな、あなたは神の恵みをいただいたのだ。神にはできないことは何もない。」と告げられる。ヨセフにも夢で、同じことが告げられる。「この子は、すべての民の罪を救うものである。」と語られ、マリヤを受け入れるようにと告げられる。そしてクリスマスを迎えることになる。

 クリスマスは聖霊による神の子の誕生と言う奇跡の出来事である。人間の罪深く、救いがたい争いの連鎖、罪のゆえに生み出される不幸を愛なる神は見捨てることはできない。神が人になるという奇跡によって救いの道を開かれたのがクリスマスである。イエス・キリストは、神の愛と恵を語り、真実の平和と幸せの道を示しながら、迫害され、敵対視され、人々はキリストを信じることが出来ないで十字架につけるのであった。

 クリスマスは、全人類の和解と幸福をもたらすキリストの十字架の犠牲の生涯を語る始まりであるといえる。キリストが何故十字架で犠牲の死を遂げられたのか、その意義を心にとめてクリスマスに表わされた神の愛と恵の偉大さ、素晴らしさを感謝し、賛美したいものである。





今週のみ言葉    ルカによる福音書 1章45節

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2007年12月9日の礼拝メッセージ