「確かなる神の言葉」  マタイ福音書2章1-12節

「確かなる神」の言葉とは「変わらない神の言葉」という意味である。言い換えれば「神様の約束は変わらない」ということである。「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから悔いることはない。いわれたことをなされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。」(民衆記23:19)と言われている。

今年の世相を表わす言葉に「偽」と言う言葉が選ばれたという。今年だけではなくここ数年、雪印乳業事件から、不二家問題に始まって今年になって苫小牧のミートホープ、白い恋人の石原製菓、赤福、福餅、きわみは日本料理を代表する「吉兆」の改竄(かいざん)事件と続く。どれもこれも日本を象徴するかのようなブランドや老舗(しにせ)である。政治の世界でも年金の杜撰(ずさん)な運用、絶えない政官財の癒着による収賄(しゅうわい)、挙句の果ては薬害責任のなすりあい。商売の基本は「信用」である。人が人を信じて物の取引が成り立つ。この世の中は人が信じ合う事によって成り立つ。「偽」がはびこっては不信と混乱、憎しみと対決、悲しみと悲惨、社会不安が覆うことになる。

「偽」とは「人」偏に「為す」と書く。言い換えれば「人の為すことは偽り」となる。人は生きるために、人と人との取引をしているといわれる。藤圭子の古い演歌の一節に「嘘もつきます生きるため」というのがある。生きるためには「嘘をつかざるをえない」のが人間である。言葉を代えれば「生きるためには罪を犯さないと生きられない」ともいえる。

人間の存在、そのものが「偽り」であるようである。象形文字の漢字は、長い間の直観と洞察から形成されてきたという。「偽」と言う字もその洞察から生まれたものだろうか。人間のありのままの姿は「偽(にせ)」であり「偽(いつわ)り」、「うそ」、即ち、本当の姿でないとも言える。違った見方から人間は、本当は「うそ」をつきたくない。「うそ」をついてしまう。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14)

神は言葉、「メッセージ」を集約すれば「神は愛である」(ヨハネ3:16、ヨハネⅠ、1:8)と言う言葉に尽きる。この暗闇を覆う人間の現実を救うためにメシヤ(救い主)、キリストを送ると約束された。それがクリスマスである。「闇中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。…ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた…権威が彼の肩にある。その名は“驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君”と唱えられる。…平和は絶えることがない。」(イザヤ9:1、5)この預言者の神の言葉を知って東方の博士たちは夜空に輝く「大いなる光」、約束の星の光に導かれて荒野を砂漠を旅した。

そしてベツレヘムに辿り着き、神の御子イエス・キリストと出会う。み使いは野宿をしていた羊飼いに「ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:14)という言葉を語っていった。人を救うためにお生まれになったイエス・キリスト。人の心の闇、すなわち「偽」なる「罪」の根源を救い、真実の平和を与えるためにその生涯をお与えになった。

クリスマスの贈り物はこのキリストによる救いの道を受け入れて、人の心を取り戻すことにある。家庭に、社会に、世界にクリスマスの平和、神の愛の赦しと和解が約束されている。神の約束、言葉は確かである変わることがない真実である。






今週のみ言葉    ルカによる福音書1章79節前半

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2007年12月16日の礼拝メッセージ