「感謝と恵に満たされて」  創世記12章1-9節

 2007年が暮れようとしている。今年の世相を表わせば「偽」であると言う。経済には好不況のサイクルがあるという。ハーバード大学の社会学者エズラ・ヴォーゲルは“21世紀は日本の世紀”だといったと言われている。「ジャパン アズ ナンバーワン」は約30年前である。

今の日本の多くの人々は高度な技術を持ちながら不安を感じている。世界で借金ナンバーワン、年金制度の混迷、社会福祉切捨て、医療制度の不安、金融不安、教育の混乱、家庭破壊、自殺者の激増、国家行政官僚の信頼の喪失、挙句の果ては品格の喪失、製品が信じられない。食べ物が信じられない。住まいも耐震偽装で信じられない。人が信じられない。社会が信じられない。国が信じられない。その底流は「嘘」「偽りの横行」である。ボーゲルは、現在の日本をどのように分析するのか興味がある。

 自由な資本主義社会の前提は、個人としては節約、勤勉、誠実であり、社会にはお金と品物が自由に流通するのが前提である。そして、規則と約束が不可欠である。自由主義といえば聞えはいいが、強いものが勝って弱者が食われる競争社会である。当然、人間には能力差があり、障害を背負っていかなければならない人もいる。

人は、お互いを思いやり、いたわり、助け、敗者には再挑戦のチャンスを強者が提供する社会でないと明るい楽しい生活はない。「自由」は欲望であり、「愛」は共生の鍵である。堀江もんの言葉ではないが「お金があれば何でも出来る」という拝金主義者では人としては共に生きることは出来ない。

 人にとって人間らしく生きられるのは人を思いやる「愛」が生かされる社会であり、家庭でなければ、この世は真っ暗になる。「愛」は「信」によって成る。愛と信が一つとなって人は生かされる。「愛」が見失われるときにエゴ(自己のぶつかる)の修羅場となる。キリストを信じることは神の愛に生きることである。

真実の神の愛を語り、人の罪深さを教え、救いの道を示された。その罪は神を信じない罪であることを示された。人々はイエスに群がり、この教えこそは人の生きる希望であるとした。群がる大衆に為政者は不安を感じイエスを迫害、弾圧する。そして十字架刑にする。その敵をもキリストは赦し、祝福し、真実の神の愛を知らない人々のために祈られた。それを見ていた人々は真にこの人は「神である」と告白したのであった。

貧しい病める者を思いやる「愛」こそが人間としての品格の土台であるといえる。節約、勤勉、誠実は祝福として富を結ぶ。それは人を祝福するための「祝福」であることこそはキリストの愛の実践にほかならない。富を分かち、みんなが幸せを分かち合うことこそが求められている。

年金問題にしても、薬害問題にしても人を助け、保証し、みんなを幸せにする法律でなければならない。法律のために人があるのでなく、人のために法律があるのである。法律はまた、人間の作るもの、政治の反映である。人の心から、社会から「愛」と「信」をなくしては獣の世界になる。

 神を信じる時、どのような時にもキリストの言葉、真実の「神の愛」の原則に導かれているのであるから、試練や失望の中にも希望を失わない生活となる。そこでは「いつも喜べる」「すべての事に感謝できる」生活が約束されている。

アブラハムはカルデヤのウルを出るとき自然環境の変化の中で苦しんでいた。神は、祝福の言葉を与えて「約束の地」を示して旅立つように導かれた。そして、ハランで定住するがなお主の導きにしたがって約束の地に向かって旅をする。

約束の地に着いたときそこにまず「祭壇」即ち、礼拝する場を設けて礼拝をささげる。その出立と旅は苦しく厳しいものであったであろうがその歩みを振り返り「感謝」をささげる。

どんなときの信仰をもて決断し「感謝」をささげてることこそは信仰による希望の決断である。新しい年も新しい信仰の祭壇を築き「感謝」をささげるようではないか。





今週のみ言葉
「主のために祭壇を築き、主の名を呼んだ。」(創12:8)

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2007年12月30日の礼拝メッセージ