「キリストに導かれる祝福」 イザヤ書43章19-20節
 
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ43:19)

 年の初めの恒例の一つに箱根駅伝がある。今年は特に劇的なレースになった。往路で余裕の勝利をつかんだ早稲田が復路7区で5百米、2分以上の差を駒沢に抜かれ逆転優勝された。更に劇的なことは昨年の優勝校である順天堂が往路で脱水症状で走れなくなった。足が引き攣(つ)り、うずくまる選手を見て思わず「がんばって」と叫ぶ。立とうとしても立てない。立ち上がり走り出す。また、うずくまる。付き添う監督が手を差し伸べる。棄権である。スタッフの号泣する声が聞こえる。思わず涙が出る。

 長い道のりを自分の力とレースを読んでコントロールしながら最高の記録を狙うレースである。しかし、どのようなアクシデントがあるのかは予測できない。スタートを切るときはすべての選手は勝利を目指している。箱根駅伝はレースの多様性が見ものであり、特に往路の5区の山登りは普通では考えられない過酷なものである。それには緻密な作戦がいる。多くの部員の中から選りすぐりの精兵が選ばれ、学校の名誉をかけて走る。みんなで目標を目指す。そこにはコーチがいる。チームを支えるスタッフがいる。マラソンのレースは孤独ではあるが、実際はチームプレーでもある。

 人生はマラソンだとよく言われる。一年一年が走行区間であるとも考えられる。新しい2008年区が今年も始まった。新しいスタートラインについて走り出すのである。人生のマラソンのコースは、通常のマラソンのように環境や条件がわかっていない。時間は確定している。人生のマラソンのゴールは「目標」を達成したがどうかである。

 一人ひとりのコースが「祝福」されたものとなるには、まず、祝福の内容としての目標がはっきりしなければならない。キリストの祝福は、「人を祝福するための祝福」である。自己満足的な祝福ではない。キリストにある祝福の真意は全ての人が福音を信じて救われることである。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフエソ5:10)「主に喜ばれる者でありたい。」(コリントⅡ5:9)

主に喜ばれるとは主のみ言葉に生きることにほかならない。それは宣教である。「全世界に出て行って福音を宣伝えよ。」(マルコ16:15)この言葉に尽きる。宣教は「言葉のない宣教」と「言葉の宣教」がある。

前者は生活と行いであり、日々の歩みにおいてキリストの御心を証しすることである。後者は正にみ言葉、即ち、福音を語る。イエス・キリストを語り伝えるのである。人生のレースでどのような試練にあってもキリストが「魂の監督者」(ペテロⅠ、2:25)でいてくださるところに解決と勝利があると約束している。(ロマ5:5)人生の目的と永遠のいのちを与えられることこそ何にも変えがたい至福となる。今年こそ宣教の実を豊かに結ぶリバイバルを目指す年でありたい。

その基本的準備は「祈り」であり「聖書を知る」ことであり、「チームの一致」と「具体的な方策」である。共通した使命には一致が生まれる。一致の障害は、傲慢、差別、不誠実、批判、憎しみ、恨みである。それは肉の思いであり、キリストの思いは、謙遜、柔和、謙譲、誠実、善意、赦しである。それがキリストの示された「神の愛」であり、福音である。

今こそ全く新しいスタートに立って全てを主にゆだねて第一歩を踏み出さねばならない。祝福溢れる年となるように。今年の字が「祝福」になるように。




今週のみ言葉 ロマ4章21節


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2008年1月6日の礼拝メッセージ