「新しい決断と祝福」 エレミヤ書31章15-17節

 成人の日にあたり、祝福の言葉「あなたの未来には希望がある」(エレミヤ31:17)

を贈りたい。預言者エレミヤが生きた紀元前7世紀ごろはイスラエルの国は南北に分断され北朝は列強バビロンの侵略で支配されて蹂躙されていた。そして、南朝も続いて崩壊をむかえていた。悲しみと混乱、絶望と苦悩の時代であった。エレミヤは、神から離れる民に下る試練の到来を予言した。

しかし、どんな時にも神の約束を信じて「あなたの未来には希望がある」と慰めと救いのメッセージを語った。

 21世紀はあらゆる面で科学の進歩と世界的に経済成長が進むと言われる。しかし、豊かさと科学の進歩が地球の存亡の元凶となっている。地球温暖化が環境破壊をもたらし地球絶滅が現実となってきている。このままでは地球には未来がないと予測されている。科学は理性の働きである。しかし、理性が、人の心に適ったものとして用いられなければ破滅となる。聖書は「神はご自分にかたどって人を創造された。」(創1:27)「すべてのものを支配せよ。」(28)とある。

人は本来神様の性質を与えられているものであり、神の御心に創造されたすべてを「支配する」、利用することを言っている。思うままにするのではなく「神のみ心」によって「管理する」のである。そして「天地が神の栄光を物語る」(詩篇19:1)ように神に喜ばれ、すべての人が安心し、平和に生きられる環境を求めることを意味する。神を見失った理性は破壊と破滅しかない。

 神の御心とはキリストに表わされた「真実の神の愛」である。真実な意味で人が「人に成る」のは、人が神の心を取り戻したときである。人は、自然には自己中心的に生きる。人は意欲を持つことによって生きる。人は、また、一人では生きていけない。人と共に生きるから「人間(ひとのあいだ)」とも言われる。真実な人は、共に生きる人である。「共に生きる」ことは「愛する」ことによって成り立つ。社会とは共に生きることである。

 「共生」が「愛」に裏づけられて初めて生きた力あるものとなる。愛は、責任でもある。責任のない愛は放縦であり、自己欲でしかない。この世の中は愛という名の欺瞞的な欲情が支配している。そこに混乱と対立と裏切りと悲劇が介在する。今日ほど自己中な時代はない。親が子供を愛する。躾と虐待との境がなくなっている。

気に入らなければ子を捨て、殺す。幸せを求めて人を不幸にする。そして人は平和を求めて人を殺す(戦争する)。利益を求めて自然を破壊する。人が愛を失う時は、人間性を失うときである。共に生きる愛があるところに「人を思いやる」「共に考える」「共に分かち合う」、いたわり、譲る、和解する、共助、協力、互助が生まれる。そこに、限りない希望が生まれる。

 エレミヤの時代に迷いと混乱、恐怖と疑念が渦巻いていた。しかし、神に愛されている確信に生きるときに、善にして、愛なる神は言葉に責任を持って国を回復されるという希望を預言者を通して与えられた。キリストは現実の神なき世界に救いと解決の道を示されている。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と言われる。

自分の命さえも愛する人びとのために十字架に犠牲になられたキリスト、「愛とは愛する人のためにすべてを与えることである。」真実に「人に成る」ことこそキリストの道である。そこに祝福の人生がある。その祝福は世界の平和と救いへと繋がると言える。




今週のみことば ロマ書12章10-11節


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2008年1月13日の礼拝メッセージ