「信仰生活の手本」  へブル人への手紙12章1-3節

「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら走ろうではないか。」(へブル人への手紙12章2節)

クリスチャンはキリストを救い主として信じることによって生まれる。キリストと結ばれる、即ち、信じる人はだれでも、新しく創造されたものであって、古いものは過ぎ去り、新しくなったものである。(コリントⅡ、5:17)それはキリストに生きることであって、キリストを基準として生きることである。キリストに喜ばれる生き方を目指す生活への変化であるといえる。(ロマ12:2.コリントⅡ、5:9.)「何が主に喜ばれるかを吟味する。」(エフェソ5:10)ことになる。

 今日の生活は情報化時代といわれる。メデアはテレビやインターネットで膨大な情報が即時に入ってくる。特に、テレビやインターネットの情報は民主主義や商業主義の社会では人々の興味と関心に訴えて世の中を操作したり、利益を求めて歓心を求めようとする。善悪が入り乱れて人々を困惑させることが多い。

国家の運営に責任を持つ政治家はメデアに媚びてタレント気取りのやからが多くなる。怪しい、軽薄な評論家の言葉に影響される。かって大家壮一と言う評論家がテレビは「一億の人を聡白知にする」といったことがある。また「テレビは泥水を茶の間に流し込むようだ」とも言ったともいわれることになる。それはテレビやインターネットは機械であってそれを操作する人間の情報の内容が問われている。

最近では特にインターネットの出会い系サイトなどは、人の劣情を駆り立てて、犯罪の温床にさえなっている。そこでは理性も知性もブレーキとならず、地位も年齢も関係なく心の闇の中で犯罪の世界に人を堕落させる構図になっている。また「だれでも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります。」(テモテⅡ、4:3,4)と言う。

人は、自分の欲情と利益で動くことになる。そこで聖書は「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(箴言4:23)と言っている。今こそ自分の中に持たなければならない「基準」が必要である。キリストを信じることは、キリストの言葉、教えを「基準」とすることである。キリストが満足される。キリストの喜びを喜びとする生き方である。一方、信仰生活は完成されるものだろうか。

「既にそれを得たと言うわけではなく、既に完全な者と成っているわけでもありません。何とかして捕らえられているからです。…キリスト・イエスによって…お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(ピリピ3:12、14)「基準」は「目標」であり、「完成」であるのです。それはキリストにあって未完成の完全であると言える。「キリストは御自分の足跡に続くようにと、模範を残されました。」(ペテロⅠ、2:21)

そして「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を“手本”としなさい。」(テモテⅠ、1:13)と言っている。キリストを「模範」として生きる。キリストを「目標」に生きることになる。使徒パウロは「この世に倣ってはならない。」(ロマ12:2)と警告している。その意味は“この世の図式に従うな”という意味でもある。惑わしと混乱する社会にあってキリストの示される神の御心に生きることこそ勝利と祝福の基本であるといえる。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。…わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:31、37)




今週のみことば 
テモテへの手紙Ⅰ、1章13節



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2008年1月27日の礼拝メッセージ