「祈りによる克服」 出エジプト記17章8-13節

 クリスチャンにも形式的な信仰と活きた信仰とがある。「形式的」と「活きた」とが対比されて善と悪の分別とすることもよくないといえる。形式的とは、また習慣的ともいえる。言い換えれば、個人の心と生活の中でのキリストのめぐみを経験する信仰が習慣化されることを目指すことである。

 しかし、いつしか習慣が、惰性となってしまい形は残るがキリストの真実の意味での教えが失われるときは「形式的な信仰」、絵に描いた餅となってしまう。信仰が現実の生活に生かされて、生活そのものが「イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光」(コリントⅡ4:6)に満たされることを目指すのである。キリストを信じる信仰によって祝福が生活に実を結び、キリストの輝き、神の栄光が表わされることになる。正に、活ける信仰のあるところに「まことに、神はあなたがたのうちにおられます。」(コリントⅠ、14:25)と人々が確認できる経験である。

 活ける信仰は神の御心に生きることから始まる。神の御心は神のみ言葉、「聖書」を知り、学び、聴くことに始まる。イエス・キリストと出会い、信じ、受け入れ、従うことである。そこからキリストとの交流が始まる。それは霊的な交流であり「祈る生活」である。祈りは神の言葉、即ち神の約束を信じて祈るものに具体的に証しして下さる道である。祈りによって神の恵みが生活の場で具体的に実ることになる。真実の信仰は祈りの生活に導かれ、祈りは信仰によって日々の生活と人生の命となり力となる。

 旧約聖書の出エジプト記17章ではイスラエルの民がエジプトから解放されてシナイの荒野で様々な試練に会う。ここではアマレクとの戦いが記録されている。モーセはヨシュアを戦いの指令に任命し、総統括者であるモーセは丘の上に立って祈ることを決意する。モーセが諸手を挙げて祈るときヨシュアの戦況は優勢となり、疲れて祈りの手を下げるとたちまち劣勢になった。モーセの側近であったアロンとフルはモーセを助けて両手を双方で支え続けた。そうするとヨシュアの軍勢は優勢となり、祈りの手は勝利の凱歌が上がるまで続けられた。

この故事の示す信仰の教訓は、一つに、祈り続けることである。二つに、共に祈ることである。その三に、祈りは必ず成ると信じることである。その結果として勝利があり、解決があり、解放がある。見方を変えればキリストを信じる信仰の祈りがあるところには、既に、勝利、解決、解放が見えることになる。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル11:1)真実の信仰は祈りに導き、祈りは命と力、勝利の道筋を確信させるといえる。その確信は信仰の告白であり、信仰のあるところに賛美と感謝が現れる。逆に言えば、賛美と感謝のあるところは信仰の勝利と解放があることになる。

 新しい年度が始まる。それは新しいビジョンへの挑戦、戦いのときである。今こそ、キリストを信じる信仰と愛による一致、与えられたビジョンの実現を確信して祈り続けることこそリバイバルの恵によくせる鍵であるといえよう。み言葉に堅く立って祈ることこそ今のクリスチャンに、教会に求められていることである。共に、一つになって祝福のリバイバルのために祈ろうではないか。




今週のみことば 
マルコによる福音書11章14節



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2008年2月3日の礼拝メッセージ