「大切な健康と生きる喜び」  ルカによる福音書5章27-32節

 健康であることは人の幸せにとって大切なことである。では健康であれば幸せかといえばそうとは言えない。確かに今日では医学の進歩は目覚しく日本の近頃の平均年齢は女性85歳、男性79歳である。一方、この十年間の自殺者は平均3万人を越えている。健康であって、長寿であっても「何のために生きているのか解らない」となると、悩んだり、苦しんだり、苦労したりすることに耐えられなくなる。人間は生きることに意味を問う。「何のために」と言う目的が意味でもある。よく考えてみるとそれは「愛」である。「愛」とは値打(価値)があると思うものである。家族のため、子供のため、妻のため、夫のため、そして故郷のため、会社のため、社会のため、町のため、国のため、大きくなると人類のためにと言うことになる。人の生きる人のつながりを大切にすることである。

やがて人は年を取ると身体的に、精神的に老化して誰かの世話になる時が来る。そのときには愛することから愛される、介護されるようになる。老人ホームを訪れると「早く死にたい」となげく高齢者が時々いる。生きているのが辛いのである。2002年に102歳でなくなった弓山先生は死ぬ間際に病床にあって、「私には寝ていてもできることがある。それは祈りだ。」と言っておられたということである。そして、神に感謝し、賛美されていたと言う。キリストを信じて永遠の命に生きる時に真実な「生きる意味」を与えられる。

身体の命、健康な命は生きるために大切であるが、それは限りある命である。すべての人の人生は死で終わる。苦しむぐらいなら「死にたい」ということになる。

 神は人に「永遠を思う思いを与えられた」(コレヘト3:11)と聖書は言っている。キリストは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言っている。人は本来、魂が死んだ状態である。「魂の死」とは限りある人生を生きることでもある。キリストにあって魂が目覚めるときに見えなかった神の国、永遠の命の国が現実になる。

 マタイという徴税人がイエスのみ言葉を受け入れて弟子になる決心をした。そこで金持ちのマタイは喜びの余り多く同業者や他の人を招待して宴会をした。律法を厳格に守ることを主張するファリサイ派はこれを見て「イエスが徴税人や律法を知らない人々と食事をされていることが良いのか」と批判した。徴税人は支配者ローマの手先で、あくどい人間、罪人と軽蔑されていた。

しかし、イエスは言われた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31,32)。ここで健康な人とは神の御心に自分で生きることが出来るとする人のことを言っている。

しかし、現実は誰一人として完全に神の御心としての律法を守り、生きる人はいないと使徒パウロは言う「正しい人はいない。一人もいない。…善を行うものはいない。一人もいない。」(ロマ3:10、12)となげいている。そこでイエスは「罪を悔い改める」ことを勧められる。神を知らなかった罪である。神のない有限は、空しさと混乱の連続である。

キリストは神の愛を語り、人の罪の悔い改め受け入れて神の愛を自己を犠牲にして十字架で示された。罪深く、病んでいる人をこそキリストは受け入れて神の国を現実に生かしてくださる。神の国を実現する愛の実践こそがクリスチャンの生きる意味となる。






トップページへもどる       礼拝メッセージのページへ      このページのトップへ

2008年2月10日の礼拝メッセージ