3月2日 礼拝メッセージ


「人を生かす神の恵み」  マタイによる福音書12章9−14節

 人が平穏に生活するためには互いに気遣うことが必要になる。お互いにしてはならない、言ってはならないことを心に思って生活する事になる。そこで色々な法律が必要になる。神様はモーセを通して人間の生きるべき基本的な「十の戒め」を与えられた。それは人間が幸せに生きる基本となる律法である。

十戒の前半は神様と人間との関係において守るべきことであり、後半は人と人とが守るべき約束である。イエスは律法とその精神を受け継いで伝えた旧約聖書の預言者の思想を基本的なこととして要約された。それは、先ず「心を尽くして神を愛する」(申6:5)事と共に「隣人を自分のように愛する」(レビ19:18)ことであり、これが人が幸せに生きる機軸であることを示された。

 神を愛することが祝福の元である。神を愛することはその戒めを守ることにある。神を愛する戒めの証しは「安息日」を守ることである。「安息日」は創世記に記されている天地創造の記録によれば、最初に光を創造し、森羅万象を順次創造して最後に人を創造された。

そして神は創造の完成の日を満足し、喜ばれて安息日とされた。「安息日を心にとめ、聖別し、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト20:8)と言われた。その後、安息日の仕事とは何かを解釈して詳細に決めて時代に合わせて解釈が積み重ねられていった。それがミシュナ(律法解釈集)として初めは口伝で伝えられ、後にタルムード(成文)となって今日に伝えられている。

それは電気の時代ではスイッチは「火をおこす」ことであるのでスイッチは押してはならないことになる。エレベーターは安息日になると10階のビルは自動的に各階に忠実に止まる。すべての点灯は自動である。食物規定ではイスラエルの法律では「神(イスラエル)の土地では豚は飼ってはならない」とある。

それでもイスラエルでは一軒だけ外国人に豚料理を出すホテルがあるという。どこで、豚を飼っているのか。それは土地の上ではなく、板張りの小屋で飼育しているからよいという。こうなってくると律法を守るために生活があることになり、生活を生かし、人を幸せに生かすこととは逆になっている。

イエス様の時代に律法厳守者がいた。イエスをためして「片手のなえた障害者の手を安息日に癒してよいか」と尋ねた。実は、病気を治療することは仕事であるのかと言う議論である。イエスは「安息日に良いことをすることは許されている。」(マタイ12:12)と言われる。律法の心は、神の御心は「神の愛」であり、哀れみ、恵み、祝福である。

 「安息日」は神の創造を思い、そのみこころである「人への愛と恵」であり、「神の栄光」をほめたたえることを心にとめるときである。そして、神から命を受けた喜びと感謝をささげる日である。「安息日」は人が生きる基本的祝福としてあることを思わなければならない。イエスは真実の神の御心、真実の愛を人に示し「安息日」論争をきっかけに十字架に架けられることになる。そして罪の絆を断ち切り、赦して救う神の道を示される。

 中国では韓非子が法家をとなえた。法律で人を治める。政治の道具としての法である。人を生かす法ではなかった。偉大な秦の始皇帝は非道な法制で短命に終わった。真実の神の道、「戒めの為でなく、人を生かす為にある」。神の恵は人を幸せに生かす力である。

イエスは十字架にかかり、甦られ、永遠の命の約束となってくださった。クリスチャンは復活の明日(あした)を記念して日曜日を安息としてイエス・キリストのみこころを思い、感謝し、賛美し、礼拝して一週間を新しく始めるのである。
今週のみ言葉
 
 「神に従わないで・・・・・話さないではいられない。」(使徒言行録4章19、20節)


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