3月9日 | 礼拝メッセージ |
「宝を大切にする生き方」 マタイ福音書6章19−21節
「なぜ、糧にもならぬもののために銀を量って払い。飢えを満たさぬものの為に労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」(イザヤ55:2) 子供にお小遣いをあげるとき、大抵、大人は「無駄遣いをしないように」と一言いってあげるものである。聖書は「糧にならないもの…。飢えを満たさぬもの為に、なぜ、お金を使うのか。」と言っている。 それは、見方を変えれば生活に役に立ないことの為にお金を使うのかということである。品物にせよお金にせよ、人に大切なものは宝である。マタイによる福音書のキリストの山上の説教では「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」とある。 口語訳では「あなたの宝のある所には、心もあるからである」と訳している。要するに大切なものがある所に人は心を置く、即ち、それに縛られる。そして6章の24節には共同訳の口語訳も同じく「神と富とに仕えることはできない」と言っている。 人はお金や、宝を自分の思うようになると思っている。しかし、実は、人は、お金や、宝にしているものに振り回されて悲しいことに奴隷のようになって、自分を失って振り回されることが多い。ここで富は“マモーナ”という言葉でそれが今の英語ではmammon(マンモン)という。 それは“強欲の神”“拝金主義”“腐敗の根源としての貪欲”などの意味がある。実は、この言葉がmoney“お金、富”となっている。大切に思うことは、とらわれることでもある。振り回されることである。お金を使っている人間が、お金が物事の尺度になって生活することになる。 堀江もんという青年が、若くして金融フアンド関係の事業で多くの金銭を手にした。そして彼は「お金でできないことは無い」と豪語した。マスコミや多くの人、政治家までも彼を持ち上げ一時、現代の英雄のようになった。しかし、裏を返せば脱法行為が発覚し、告訴されることになった。 世間は一瞬にして彼を持ち上げた政治家や、マスコミの軽薄さを笑止した。人間性を失って豊かに生きることの空しさを痛感した。堀江もんはこのことに気付いて人間の真実の姿を求めて再起してほしいと思う。「わたし(即ち、神)に聞き従えば、良いものを食べることができる。…魂に豊かさを楽しめる。」(イザヤ55:2)。 真実の神をあらわしてくださったキリストのみ言葉に生きるとき、神にあって真実の人間性を与えられ、神の約束される健全にして、真実の人生の幸せを喜べる者にしてくださると約束している。 そこで、第一に、人生は神からゆだねられているものであり、神の御心に生きるときに“神の栄光”(コリントT6:20)を表わす祝福の人生に生きることになる。生活の営みによって手に入れるすべてのもの、そして時間もすべてが“神に喜ばれる”(ロマ12:2)ものになることである。 第二に、だから、就職、進学、結婚などの人生の岐路に立つときには“神に喜ばれる”“神の栄光”を表わすことを基準に祈って、導かれて決断することが大切である。 第三に、与えられたものはお金も時間も人間関係も、そのお金に振り回されるのでなく“神に喜ばれる”ことを土台に使うことによって“神の栄光”素晴らしさを証する人生となり,勝利の人生が約束される。 |
今週のみことば マタイによる福音書6章24節 |