3月16日 礼拝メッセージ


「キリストの受難と希望」  マタイによる福音書27章15−31節

「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打たれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちの平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:4,5)

 十字架といえばキリスト教のシンボルである。赤十字のシンボルが十字架であるように一般的になっている。赤十字は敵、味方なく傷ついた人を助け癒すことを使命にする。

1853年から始まったロシヤに対する英仏トルコ連合とのクリミヤ半島での戦争に英国のナイチンゲールが従軍し、敵味方なく傷病兵を助け看護に当たった。この当時、英国では看護師は下女のする卑しい仕事と見なされていた。

社会的に高貴な家庭の子女であったナイチンゲールは看護師になることすら反対され、ましてや従軍することなどは女性のすることで無いと反対された。

しかし、敬虔なクリスチャンであるナイチンゲールは苦しみ、痛んでいる人を助けることは尊いことであると思っていた。それだけでなく野戦で傷つく兵士は敵味方なく同じ人間としてその苦しみを見捨てることはできなかった。

危険な戦場でキリストの愛に勇気を与えられ献身的な看護に徹した。この慈愛に満ちたキリストの愛の行為が国、敵味方を越えて感動を与えた。このことかきっかけとなり、1862年国際的な赤十字社が設立された。

それは戦時だけでなく困窮する人々への救護、医療支援をする組織と発展している。

赤十字は1920年、フローレンス・ナイチンゲール記章を制定し功績のあった看護師を毎年、表彰している。赤十字は、キリストが架けられた十字架であり、その赤色は十字架上で流されたキリストの血をあらわしている。

その赤は犠牲の血の象徴でもある。十字架刑は古より、重い罪の極刑の象徴である。キリストの裁判の経過が聖書の福音書の後半に記録されている。判事役である総督ピラトは「いったい、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」(ルカ23:22)と言っている。

しかし、イエスに反感を持つ群集の抗議が、社会不安になるに及んで政治的な決着でイエスの十字架刑を執行することになる。聖書は「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に死んで、義に生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(ペテロT、2:24)と証言している。

 人は、神を見失い、信じなくなるとき、自己中心に生きる。そこに争いが生まれ、罪が芽生えて混乱と破壊が進み、真実の愛が見失われ悲劇が起こる。その究極的な罪の極限が戦争となって現れる。

その罪を自覚して、悔い改めて神の差し出される愛による赦しの道を示してキリストは裁きを受けられ、苦しみの中で十字架に犠牲となられた。キリストの犠牲によって人は罪を知り、罪を赦され、罪から解放されることになる。神の御心が慰安の生活の中に実を結ぶことになる。

そして、平和と幸せの為にキリストを信じる人は、神の愛を、十字架の愛を人生に証しする生き方となる。悲惨な戦争の中で傷つく人々を敵味方なく助けて神の愛を生きたナイチンゲールは、そのメッセージを赤十字に託して語りかけている。全ての人が神との和解、キリストの十字架の苦難を理解して受け入れところに希望がうまれる。キリストを信じる信仰に目覚め、希望に生きようではないか。

今週のみことば
コリントU、5章21節


 ページのトップへ    2008年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ