3月23日 礼拝メッセージ


「死を克服する勝利の人生」  ルカによる福音書24章1−12節

すべてのものには終わりがある。英語で終わりをENDエンドという。このエンドは“終わり”“最後”“究極”など使い方で色々な表現がある。また“目的”や“目標”という意味もある。最近、ミステリー・ツアーというのがあって、行き先をいわないで募集するツアーがある。実際は“何処か”に行く旅行であることは了解済みである。実際にどこにいくのか、帰ってくるのかわからないとすれば誰も行きたがらないということになる。終わりのない旅はいくら快適でもつまらなく、飽き飽きして落着きたくなるのが人の思いである。落着いて心安らかに住む自分の住まいが心の安らぎを与えるといえる。

 徳川家康の辞世の句といわれる「人生とは、重き荷を負うて荒野を一人旅するが如し」は、人生が旅であり、その旅は苦悩と孤独と空しさを表現している。その終わりは「死」である。五木寛之は「人生の目的」という本の中で「人生の目的は“生きること”が第一歩であり、“生きること”こそ人生の目的だ。」と書いている。しかし、生きることの終わりは「死」である。そして、人は“死んではならない”と思い、苦しみ悲しむ。現実を受け入れられない。

 聖書は「神は…永遠を思う心を人に与えられる。」(コレヒトの言葉3:11)という。だから死ぬことが不自然に感じる。しかし、聖書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)といっている。死で終わることなく「永遠の命」に生きると約束している。それではなぜ人は「永遠の命」を見失ったのか。ロマ書では「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)という。死は罪の結果である。罪は、神を見失い、拒絶することから始まる。神のない、神から離れた世界では、人は自己を中心に生き、欲望に支配される。そこに混乱と紛争、抑圧と不安が絶えず付き纏い、希望の無い終わりが来る。

 イエス・キリストは不安と混乱、死の恐怖を解決するために道を開かれた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)キリストは神に帰る道、真理の道、そして命、即ち、人生の希望としての永遠の命への道を教え、示された。それは神の心を取り戻すことであり、神の愛に生きることでもある。平和と平安の鍵である真実の愛と「赦し」である。自分の命を犠牲にして十字架に架けられながら、自分に敵するものを赦し通された。かねてキリストは「わたしは必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。」と言われていた。誰一人としてそれを信じることはできなかった。

「しかし、実際、キリストは死者の中から三日目に復活された。」(コリントT、15:4、20)と多くの弟子たちの証言が残されている。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。霊の体があるのですから、霊の体が復活するのです。」(44)とある。形相は変わるが、神を信じる人の霊は永遠に変わることが無い。

 キリストを信じる信仰は死を克服して、不変の永遠の命に生かされる。神の国は、死に関係なく永遠に生きる希望の命となる。キリストを信じるクリスチャンは、今を永遠の命、神の命としての愛の命、愛の原則に生かされる。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20−21)とキリストは言われている。現実に信仰によって神の国、永遠の命を今に生かされることができる。ハレルヤ!!
今週のみことば
ヨハネによる福音書11章25節


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