3月30日 礼拝メッセージ


「人生の旅路はいつも二人」   ルカによる福音書24章13−35節

人生には色々な時がある。成功と満足のときは喜びのときである。喜びや成功の時には人々が集まり祝ってくれる。しかし、悲しいとき、苦しいとき、淋しいとき、失敗や、挫折のときは孤独であることが多い。また、心の悩みや苦しみを理解してくれることは他の人には難しく、人に囲まれながらも孤独を経験することがある。

 主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束しておられる。ルカによる福音書の24章にある「エマオの途上」の記録は二人の弟子がイエスの十字架刑の結果に不安と失望を語りながら、難を逃れてエマオ村に帰っていく途中の出来事である。そこに復活されたイエスが彼らに近づき、話していることの一部始終を聞かれた。彼らがイエスが復活された事実を半信半疑でいたので、実際にイエスを目の前にしてイエスであることがわからなかった。

そこでイエスは神の約束は真実であることを聖書を通して説明された。弟子たちはだんだんとイエスの言葉に引き付けられて、夕方にもなり共にとまっていただき、さらに話の内容を聴きたいと食事の席について神を賛美しているとイエスの姿が消えてしまった。その時、初めてイエスであることがわかった。早速、二人は他の弟子たちのいるエルサレムに引き返してみると、やはり復活されたイエスに出会ったということを話している。

彼らが食事をしていると、再びイエスは現れ、恐れおののく弟子たちに聖書の約束と十字架と復活の意味を示された。復活の出来事があって50日目に約束の聖霊が降り、弟子たちは始めてイエスの真意を確信できて、人々の罪の救いと神の国の平和を宣べ伝えるようになる。その中心的なメッセージは「主は生きておられる。…あなたがたと共にいる。」であった。

 神は、生きて働き共にいて「疲れた者、重荷を負う者の重荷を負ってくださる」(マタイ11:28)と約束している。

 中学時代に私を教会に導いてくれた木坂兄は幼少の頃、結核にかかった。友達も家族も来なくなり、感染を用心して母親だけが世話に部屋にはいってくるだけになった。70年も前の時代は結核は感染力が強く不治の病とされ、10軒ぐらいの集落で一家が結核で全滅すると言う悲劇が起こってから、その集落は恐怖のどん底に陥れられていた。初めは病気のことが理解できないで悶々として悩み、孤独に陥った。

そして人や、家族の愛情にも疑問を持つようになっていた。そのようなときに“主婦の友”という雑誌に聖書の広告があり「すべて労する者、重き荷を負う者われに来たれ」と言うキリストの言葉に触れて、20銭で新約聖書を手に入れる。そのことがきっかけで信仰に導かれクリスチャンになる。どんな時にも神様は愛なる方であり、希望を与えて生かしてくださることを経験する。彼はどんなときにも“主キリストは共においで下さる”ということを経験の中で確信し喜びと感謝で人々にキリストの福音を伝えた。

長い闘病生活ではあったが、健康を回復し83歳の生涯で多くの人をキリストに導いた。そして田舎の小さな町に教会が立った。彼の信仰を引き継いだ人々は今も信仰によって活けるキリストの恵みを体験している。

「彼は死んだが、信仰によって今なお語っている。」(へブル11:4口語)イエス・キリストの復活は現実に人を生かし、死を越えて新しい命に生きる希望に生かされることになる。クリスチャンには、いかなる時にも失望することなく神の愛に希望を持って力強く生きる人生が約束されている。

今週のみことば
「イエス・キリストは、きのうも今日も、永遠に変わることのない方です。」(へブル13:8)


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