2008年4月20日 礼拝メッセージ


「思いやる心の尊さ」  マタイによる福音書25章31−40節

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み,善からは離れず、兄弟愛をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。…喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ロマ12:8、15)

 キリスト教は「交わり」の宗教とよく言われる。また、一般的にはキリスト教は「愛の宗教」と言われている。聖書は「神は愛である」(ヨハネT、4:8、16)と言っている。愛のあるところに交わりが生まれる。交わりは理解と受容と信頼によってによって成り立つ。和辻哲郎と言う人は「人間は人と人との間」であると言っている。漢字の表現である「人」と「人間」の微妙なニュアンスを表わしている。

人が「人間」になるとは、人は一人では生きられないし、人の間、人と共に生きて人になる。人を結び、人が、人と共に生きる結ぶ絆は「愛」である。創世記には「神はご自分にかたどって人を創造された」と記している。「神が愛」であることから「人も愛である」とのメッセージである。愛は抽象的でなく、具体的であり、人を生かす命であり、動機である。本来、人は、「神の愛」に生きるものとして創造された。

しかし、神から離れて自己中心に生きるとき、自己の願望が愛の中心になった。生きることが自分の願望を満たすことになるときに、人間本来の愛である神の愛を失うことになり人と人との間に衝突が起こることになる。「欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:15)と言うことになる。

 キリストは「わたしを見たものは、父(神)を見たのだ」(ヨハネ14:9)と言われている。それは「神の愛」を実際に、具体的に見ると言う経験である。実際に、キリストは人々に愛のない惨めさ、罪の醜さと結果の空しさを示し、神の愛に生きる希望を語り、それは、悔い改めの和解であり、敵をも赦す、赦しであった。キリストは反対する人々から告発される。キリスト即ち、神の救い主であると証しされたためであり、法制的にも無罪であったが、政争の中で十字架にかけられることになる。皮肉にも、彼らが神を十字架で殺すことを通して、なをキリストは彼らを赦して、神が愛であり、ご自分が神であることを証明されることになった。

 キリストを信じることは、キリストの言葉を守る人であり、「キリストを愛していれば、キリストの戒めを守る人である」(ヨハネ15:15、23)。キリストの戒めとは「互いに愛し合うことである」(ヨハネ13:34)である。「キリストの愛」は具体的には「思いやる」と言うことに尽きる。最も、大切なこと、人として優れた事は、「優」は人が憂えると書く。人は人を「思いやる」、「心配」する。そこに最も人間としての素晴らしさがある。

ここには人を思い、人を受け入れ、共感し、共に悩み、共に泣き、共に喜ぶ、共助と力が生まれる。そこに理解と共生の希望が生まれる。「愛には偽りがあってはならない」とある。人の愛ほど偽りやすいものはない。愛という仮面をかぶって人を不幸に陥れる罠が人の心に、この世の中に満ちている。キリストは真実の愛を十字架の上で示された。

そこに「神の愛」がある。キリストを信じることはキリストによって示された「神の愛」に生きることである。真実の神は支配し、裁く神でなく、人に僕のように仕え、すべてを与え、赦し、受け入れ、人を徹底して「思いやる」愛なる方である。「私のこの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」(マタイ40:25)。

逆境にある人を思いやる心は神を思う心に生きることであり、神の愛に生きることに尽きる。神の愛のあるところに神の臨在があり、そこに神の国がある。神の国の拡大こそはキリストの愛に実践にほかならない。

今週のみことば  「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み,善からは離れず、
             兄弟愛をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
             …喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ロマ12:8、15)



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