5月18日 礼拝メッセージ

「試練を喜ぶ信仰の恵」  創世記 45章1−8節

 「わたしたちの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰がためされることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分のなく、何一つかけたところのない人になります。…試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」(ヤコブ1:2−4、12)

 人生は生活の積み重ねであり、日々の生活は喜びや悲しむが日向(ひなた)となり陰となって重なり合う連続である。人は、余りにも苦しい試練や苦難にあうと日本の慣用句になっている“神も、仏もあるものか”という言葉がある。しかし、聖書は「いろいろな試練にあうときは、この上ない喜びと思いなさい。…試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」と言っている。このような苦しみに会うのは神のおいでにならない証明であるというのが“神も、仏もあるものか”という表現であろうと思われる。真実に愛なる神を信じる人にとっては、試練が「完全で、何一つ欠けたところにない」強靭な人に造り変わると言うのである。

 ロマの信徒への手紙5章には「苦難をも誇りとします。…苦難は忍耐を、忍耐は錬達を、錬達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。」と言っており新改訳聖書では“ 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです”(ロマ5:4)と表現している。神様が心の内にあって支え、導き、力を与えられるときには“試練”を克服できる。希望が確信となって試練への挑戦が自己の成長に繋がるのである。人はしばしば“試練”に出会うときに、不安、焦燥、不信、迷い、自己喪失になる。そんなときには自暴自棄、責任転嫁、自滅選択などの道を選ぶことになる。それは“やけくそになる”ということである。神への信頼から生まれる確信は“落ち着き”、すなわち冷静させる。

 旧約聖書の創世記にあるヨセフの物語は人生の試練を克服する道筋を明示している。11人の兄弟の中でヨセフは一番幼く、父親は可愛いがっていた。兄弟のそねみは父親の寵愛が原因であった。それだけでなく、ヨセフには霊的に夢の中で神意を説き明かす賜物を与えられていた。ある時、兄弟だけでなく父母もヨセフを崇敬するような夢の解き明かしをしたために父親までも憤慨させたが、父は、また一方では心配もした。

ヨセフは兄弟達に捨てられ、エジプトの高官の奴隷に売られて数奇な運命をたどることになる。しかし、様々な試練の中で「主がヨセフと共におられた」と聖書は幾度となく記録している。エジプトの王の夢を説き明かすと言う機会に出会い、国家の存亡を救う道筋を示すことでヨセフは宰相になる。国家権力執行権者になった彼は、彼の予言どおりに世界は飢饉に襲われ、当時の世界中から食料を求めて人々がやってくる。その中にヨセフの兄弟もやってくることになる。

そして、家族は救われ、全家族が厚遇で迎えられることになる。お互いの関係が分り、嗚咽して家族は喜び合う。兄弟は、その時ヨセフにした仕打ちを恐れ、後悔する。しかし、ヨセフは言う「今、わたしをここへ売ったことを悔やんだり,責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたより先にお遣わしになったのです」(創45:5)。ヨセフの人生は第一に、神への信頼の人であった。第二に、神のみ声、言葉を聴ける人であった。第三に、それ故に、神は何時も共におられた。第四に、神の導きをどんな時にも確信した。

そこには、どのような試練にあっても確信があり、平安があった。試練に動揺することなく受容できる力があり、神による希望に生きることができた。主イエスは「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されている。だからこそクリスチャンは「苦難を誇りとし、喜びとし、忍耐し、喜べる」(ロマ5:3、ヤコブ1:2、、12)のである。





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