6月8日 礼拝メッセージ

「苦悩と喜びの狭間で」  マルコによる福音書2章1−12節

 わたしは牧師になる訓練を受けた神学校在学中に学ぶ目標は、常に、イエス様のように生きるということであった。そこでいつもイエス様だったら「どうされる」のかが日常のテーマになることになる。それは決してきれいごとではなく、現実は、自分との戦いであり、苦闘でもある。人間としての欠点、罪深い現実の自分に過ぎない。しかし、ルターが言うように「クリスチャンの人生は悔い改めの生涯である」と言う言葉に、日々、キリストの十字架の贖いに赦されて、自分を知り、反省し、悔い改めて、キリストを目指す日々である。

そこでわたしは特別なとき以外には牧師職としてのガウンを着ない。とかく宗教家は法衣で身を包んで神の権威をもって教えるという考えが伝統的にある。しかし、イエス・キリストは常に、上から出なく、人と“共にいる”と言われた(マタイ28:20)。また、“いつも”であり、まさに、常に、どんな時にも、どこでも、共に歩き、語り、理解し、見守り、支えてくださる方である。そのキリストを伝え、キリストに生きるのが牧師であると言える。いわゆる宗教家らしくないイエス様と共に歩む牧師でありたいと祈り努力してきた。

イエス様は、人々が子供を祝福していただくために連れてきたときに弟子達は人々を叱った。しかし、イエス様は、それを嗜め(たしなめ)、子供を受け入れ祝福された。また、目の見えない乞食が助けを求めたとき、人々は彼を叱って、黙らせようとした。イエスは、人々を嗜めて、やさしく受け入れ、その願いを聞きいれ、彼の目を癒すと言う奇跡を行われた。

この世の人々の常識、習慣、伝統などに縛られないで、今、目の前に苦み、悲しみ、孤独に悩む人を見過ごしにはできないで救いの手を差し伸べるのがイエス様である。だからこそ、クリスチャンは「他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのこと(キリストが行なわれた)を心がけなさい。」(フイリッピ2:4,5)言っている。文語訳の聖書では「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ。」と言う訳になっている。キリストの心、キリストの愛に生きるということである。

マルコの福音書の2章には中風の病に苦しんでいる人を4人の人々がイエス様のところに運んできて癒される出来事の記録がある。イエス様は、中風の人を連れてきた4人の人々の信仰に注目される。

第一に、4人の人がどのような関係の人か説明されていない。しかし、イエスは「この人たちの信仰」を見て救いの手を差し伸べられる。そこでは多くの人たちが居て家には到底入れなかった。しかし、この4人は天井をはがして、イエスの目の前につり下した。正に、非常識、考えられない、無茶な行為である。それはどうしても癒してもらいたいという中風の人への愛であり、祈の現れである。

4人の熱意、中風の人への愛が伝わって来る。愛が信仰となり期待すなわち希望となる。その熱意が、行為よってありありと見えたのである。愛と信仰による希望は奇跡を生むことをもの語っている。第二に、4人のイエスへの同じ思いである。信仰とビジョンの一致こそは奇跡を生むと言える。キリストにある信仰の祝福は、愛と信仰の一致による。その愛は、愛する人の為に自分を差し出すキリストの十字架の愛に従うところに生まれる。第三に、イエスが言われた「罪赦された」と言う言葉の謎は、正に、人が「神の愛」に目覚めることである。

神のこころに生きる人を指している。病気と言う苦しみを持ってキリストに来る。真心から信頼し、キリストの救いを頂くことを信じ、期待するときに神に受け入れられることを示している。恵みによって神に受け入れられ、神なき罪の惨めさを自覚し、神を第一にする祝福の道を歩めるようにされる。人は苦悩の中に生きながら、キリストと共に生かされるとき「輝かしい勝利を収め」(ロマ8:37)ことになる。だからこそクリスチャンは「常に喜べる」(フイリッピ4:4)人であるといえる。苦悩と喜びの狭間にあって、クリスチャンの人生は“すべての事に感謝できる”日々となる。



今週のみことば  詩篇121篇1―2節




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