6月15日 礼拝メッセージ

「一羽の雀と神の愛」  マタイによる福音書10章26−31節

 人はみんな幸せに生きたいと願っている。個人で満足の差はあるが、生活が困ることの第一は、衣食住に欠ける事である。その次に仕事でのトラブルである。そして、楽しく生きる基礎となる人間関係である。実際には、病気になったり、思わない事故にあったりすることが人生の試練となる。

 よく考えると幸せの実感はいつも流動的で浮かんだり消えたりする。かえって、満足感を喜ぶときにも、試練に出会うときにも変わることのない「落ち着き」と「平安」が心にあることが幸せの土台であると言える。「すべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をおさめています」(ロマ8:37)。神を信頼する人は、神の愛に目覚め、神が共にいてくださることによって「試練」を「克服」できると言う。

マタイによる福音書10章26節では「人々を恐れてはならない」と言っている。人とうまくやっていく為や、自分の利害関係で「人の顔」をうかがいながら生きるのが日常のいき方でもある。そこで偽善が生まれる。演歌の台詞ではないが“嘘をつきます。生きるため”ということになる。正直が失われれば、誠実が失われ、信用がなくなり、人間関係や、取引関係は不安定になり、やがては信頼と信用を失い、混乱と破滅に陥ることになる。

この聖書の箇所のメッセジの第一は、「人を恐れる」のでなく「神を恐れる」ことへの生き方のすすめである。「神を恐れる」ことは、実は「神から離れること」「神を信頼しないこと」から起こる不安と混乱、破滅を恐れよと理解できる。

むしろ、「一羽の雀の命」さえ見守られている。創造者としての父なる神は、「愛なる神」であり、責任を持っていてく ださる方である。もちろん聖書では地獄で滅ぼす権威を表現しているが、現実は神から離れて生きること、自己中心で生きることの悲劇を言っており、そのことが罪ある人生であると指摘している。罪は、自己を蝕み、人生の目的を見失わせて虚無の中に孤独と不安と絶望の中に陥れる。神が裁かれるのでなく罪の道を選ぶその人自身が、自分を破壊し、滅ぼすことになる。

第二に、だから、「髪の毛一本の数も残らず、数えて知っておられる神」は、心の中のすべてをも知り尽くしておられる。神の愛は徹底して「理解」してくださる愛である。例外なく一人ひとりのすべてを知って、理解していてくださる。何が必要か、何がその人にとって幸福かをわきまえて知る方である。「憩いの水際に伴い、…正しい道に導かれ…共にいて、鞭打ち、…わたしを力づける」(詩23:1−4)。そして魂を生き返らせ、災いを免れさせ、何も欠けることにないものとして守ると約束される。「命ある限り、恵といつくしみはいつもわたしを追う」(6)ことになる。

第三に、この世では価値なきものは、見捨てられる。2羽の雀が1アサリオンで売られている。最少の貨幣単価であり当時の労働者の日当の16分の1と言われている。大正年代に改訳された文語訳では「2羽の雀は1銭にて売るにあらずや」となっている。今様に言えば1円となるのでろうか。全く価値がないという意味である。全く価値のない一羽の雀の命も神のみ手のうちにあり、守り、支えおられる。

神は「私の目にあなたは価高く、貴い。」(イザヤ43:4)と言われる。自己卑下と孤独、虚無的な深遠に絶望しても、人は神に愛されている尊い存在であり、可能性を持っている希望の存在であると見ていてくださり、その可能性を期待して引き出してくださる方である。






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