6月22日 礼拝メッセージ

「幸せに生きる平和の鍵」  マタイによる福音書18章21−35節

 生活とお金は切り離して考えることはできない。政治にしても事業にしてもお金が社会を動かしているといえる。そこで人はお金に振り回されがちである。そこで聖書は「食べる物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(テモテT6:8−10)と警告している。

また、マタイによる福音書では「あなたがたは地上に富を積んではならない。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるからである。…あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」(6:19、21、24)と言われている。お金に魔性があるのでなく、人の心の欲望が、人をお金の奴隷にしてお金に振り回され、主体性をなくして人間性を失うことになるというのである。

 お金は“マモナス”という言葉で、英語では“マーモン”で“富”という意味であるがその裏の意味は“悪、腐敗の根源”“富の神”、“強欲の神”というふうに使われる。そしてその語源がマネー(お金)になる。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある。」ということは、心が“富”に支配されている。“富、お金”が神になっているのである。それは神ならざるもの、即ち、偶像であり、邪道であるというのである。

 お金は、人の心を映し出すといい、人の人間性、その人の人柄を映し出すといえる。

 マタイによる福音書18章には「仲間を赦さない家来」の譬えでイエス様は神の御心としての愛と赦しを示しておられる。ある王が家来達に貸した金の決済をする。一万タラント(時価で一億6千万円ぐらい。1タラント16デナリで1でナリが当時の日当であり、今の日当一日一万円として)貸した家来に返済するように求めたが、できないので家屋敷を売って返済を求めたが、その家来は、何とか全額返しますからと懇願した。

そこで憐れに思って王は、その借金を帳消しにしてやった。ところが、その家来は、実は自分が百デナリ(約100万円)貸している仲間に取り立てた。返済できないで泣きつく仲間を訴えて牢に入れた。そのことを知った王は、烈火のごとく怒り、自分が赦してもらったのに仲間を赦さない家来を再び捕らえて返済まで牢に入れたというのである。

「一人ひとりが兄弟を赦す」ことを示し、赦されたのに赦さないことは、又神も赦されないことを言われている。現実には現代での経済活動は信頼に基づくことから簡単に約束を守りえない時には厳しい処置がなされる。問題が自己責任にある時もあり、社会の不可抗力の時もある。だからこそ社会の仕組みに困窮するものを適宜、援助する配慮がされなければならない。

しかし、この譬えはむしろ“赦された者”が“自分が赦されたのに人を赦さない”こと、“憐れみ”の心を忘れることへの警告である。人は共に生きることによって生活が成り立つ。共生は愛によって実践される。“愛は寛容にして慈悲あり”というごとくキリストの十字架は愛の犠牲を意味する。いや、愛していない人にも、なお、痛みを越えて犠牲をいとわない愛である。そこでは自己の利益を越え、苛立ちを克服し、恨みを打ち捨てて、真実を求めて忍耐することになる。(コリントT、13:)

人間間の破れを修復し、回復できる見通しこそ希望となる。和解は平和である。「和解のための奉仕」(コリントU、5:18)こそはキリストに生きるクリスチャンの道である。キリストは「わたしは、平和をあなたがたに残し,わたしの平和を与える。」(ヨハネ14:27)と言われている。キリストの愛と赦しの原理こそは、人が幸せに生きる平和の原理である。使徒パウロも「すべての人と平和に暮らしなさい。」(ロマ12:18)と言う。心の平安、家族の平和、すべての人との平和こそは幸せの鍵である。キリストの愛は平和の鍵であり命である。



今週のみ言葉  マタイによる福音書5章9節


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