6月29日 礼拝メッセージ

「信仰による楽しい日々」  ゼカリヤ書2章14−17節

 人は、常に楽しい日々を送ることを願う。楽しいことは嬉しいことでもあり、満足でもある。幸せに生きることである。幸せは生活の安定と満足ともいる。人生は喜怒哀楽の連続であり苦しいとき悲しいとき喜びや満足は消えては浮かび、浮かんでは消える変化の連続である。絶えず取り巻く環境の変化で振り回されて生きなければならない。言い換えればこの世には確かなものはなく、絶えず移り変わっていると言える。

「露と落ち 露と消えにし 吾が身かな 浪花のことも 夢のまた夢」という句に現れているように赤貧の中から苦難と試練の中で天下を治め、権力と金で囲まれ栄華を極めた太閤が、なお不安と孤独の中で今を夢遊に彷徨(さまよ)う気持ちを言ったものであるといわれている。

聖書は「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(へブル13:8)といっている。キリストを信じることはキリストと共に生きることでもある。キリストは又、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)といわれる。神であるキリストが、友と呼んでくださる。その関係は、キリストによって現された神の愛であり「友の為に命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)といわれている。

わたしたちの環境が変わり、人間関係が壊れ、人間不信に悩むことがあり、どのように世が変わろうとも変わることなく愛して下さると言うのである。愛とは信頼である。キリストを信じることはキリストを信頼し、愛することである。キリストは「どのような犠牲をも惜しまず、命おも犠牲にして」変わることなく助け、支え、教え、育んでくださることを約束している。愛する証としてわたしたちにいつも命をかけで責任を果たして下さるのである。キリストを信じることは、人生のいかなる試練や困難なときにもキリストが共にいて責任を果たしてくださることを信頼する経験である。

紀元前720年ごろイスラエルはバビロンの捕囚からペルシャの王クロスの解放令によってバビロン(今のイラク)から帰還して国の再建にとりかかっていた。なにはさておきイスラエルにとって神に選ばれている象徴は幕屋であり、神殿であったことからエルサレムに神殿を再建することにとりかかった。

しかしサマリヤ人の反対や政変で試練に会い再建は困難を極めた。そのころゼカリヤはハガイと共に予言して「神への信頼」によって神が栄光を現されると告げた。ゼカリヤは「困難のときの希望と励ましの預言者」と言われている。クロス王の解放令で帰還して希望と喜びを持って信仰の告白と心のよりどころとして神殿建設に取りかかって基礎の土台ができたころ反対運動が起こり、政変が再建を頓挫させた。人々は嘆き苦しんだ。

しかし、「シオンの娘よ(イスラエル)。声を上げて喜べ。わたしは来てあなたのただ中に住もう。・・・多くの国々は主に帰依する」(ゼカリヤ2:14)とゼカリヤは予言した。神を信頼するときに「主は共に」いてくださり回復と賛美の祝福を約束し、更に、「すべての人々」にその祝福は分かち合ことになると約束している。

ゼカリヤの言葉に支えられ、励まされて人々は信仰に立ち、目標を達成する。信仰のあるところに希望と平安と確信が生まれる。そして内なる魂に平安と勇気と努力が生まれ神の約束は達成されることになった。

だからこそ「苦難をも誇り」(ロマ5:3)とし、「試練をこの上ない喜び」(ヤコブ1:2)とし「試練を忍ぶ人は幸いである」とさえ言うことができる。だからこそ「いつも喜び」「すべての事に感謝できる」日々を約束されるのである。

不完全で変化する現実の生活の中で、変わらない神の愛、神の義、神の善意に支えられて、変わることのない神の国、永遠の国に生きるからこそ現実に生きる希望が生まれる。キリストを信じる生活には、平安に楽しく生きることができると約束されているのである。



今週のみ言葉  ロマの信徒への手紙8章18節


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