7月6日 礼拝メッセージ

「知られざる祝福の世界」 イザヤ書40章27−31節

 人は、人生の試練が余りにも厳しいときには、神様を信じていても、ふと“神は、わたしを見捨てられた”と思うようなことがある。神の民イスラエルは地勢的に大国に挟まれて幾度となく試練にあう。BC8世紀ごろに始まるアッシリヤの北朝侵略からBC6世紀のバビロンの南朝支配まで悲惨な時期を過ごした。イザヤはその悲劇の北朝の滅亡と南朝に及ぶ試練の時代に活躍した預言者である。イザヤは試練の中にあっても、真実の唯一創造の神は、選ばれた神の民を必ず守り、回復し、祝福されると語った。

 人は、試練にあるとき自分の周りが見えなくなる。見えなくなると判断ができなくなる。迷いは心配になり、苦悩となる。神を信じることは神の目線で人間を超える天空から全体をみて、全体を理解するようになる。そして過去と現在と未来をみて現在を理解する。神様を信じることは未来を見据えて現在を克服できることになる。イザヤ書40章には試練の中にあって迷っている人々に繰り返し“何故、善にして、愛なる神、全能にして、全知なる神様が信じられないのか”と問うている。

「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)主に望みをおくとは、主を信じ、信頼することである。その人は「新たなる力」を得ると約束している。「新たなる力」とは「走っても」「歩いても」疲れない。へこたれない。いかなる試練にあっても諦めない気概と勇気、忍耐と努力が与えられると言うのである。それこそ「主を待ち望む」希望である。主を信じる信頼から生まれる希望である。その希望を生む姿を聖書は象徴的に鷲のように翼を張ってと言うように表現している。

正に、翼は両翼によって飛び立つ、舞い上がり上空に行けば行くほど広く視野が広がり、勇気の根拠になる目的の理解が明らかになる。主を待ち望むものに与えられる両翼とは何であろうか。それは、「御言葉」(聖書)と「聖霊の働き」と言う二つの翼であると象徴的に言えよう。御言葉葉、キリストの福音であり、教えである。命にいたる真理の道である(ヨハネ14:6)単に、キリストの言葉を読んでいるだけでは、解ったことが力にならない。

俗に言う“分っちゃいるけど止められない”となってはならない。それは、神を信じていながら現実は神の御心に適わない思考や習慣から抜け出せないことを意味している。御言葉を待ち望むとは、御言葉の約束を信じて祈ることを言うのである。キリストのみ言葉を信じて祈り待ち望むときに時至り、キリストの人格であり、命でもある聖霊が注がれて、キリストの言葉が体験的に理解され揺ぎ無い確信となり、全人格を動かす命と力となる。

 キリストは神の愛を語り実践し、神としてその力を現し、多くの人々を癒し、奇跡を行われた。多くの人々はイエスを慕い、弟子達はキリストの言葉に感動してすべてを捨てて従った。しかし、偏見と誤解、ねたみの渦の中で神としてのキリストは理解されずに十字架の処刑とされた。弟子達を初めイエスに従っていた人々は、イエスが解らなくなり失望する。戸惑いと弾圧の恐怖におののくことになる。しかし、イエスは、自分は神の子・キリストであり死んで三日目に甦ると言われていた。確かに、このことは現実に起こった。

しかし、弟子達は復活されたイエス様に出会いながらも、その出来事、即ち、十字架と復活の出来事の意味がわからなかった。しかし、なおイエスは弟子達に「主を待ち望むこと」を勧められた。そして、待ち望む彼らに「聖霊」が臨んだ。その時、始めてイエスがキリスト、救い主であることをはっきり確信でき、人間の不安と絶望の根源的な原因としての罪を贖い、救うためにイエスは十字架に架けられたことが解った。神は、愛なる方であり、現実に自己を犠牲にして責任を負い、人を救い、助け、支え、導かれる救い主であることを示された。恐怖と不安の中から今日のキリストの教会が全世界に広まることになる。「希望は失望に終わらない」(ロマ5:5、口語訳)



今週のみ言葉  ロマ書8章31節


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