7月20日 礼拝メッセージ

「麗しい交わりの喜び」   詩篇133篇1−3節

今日の様々な社会的問題の中で深刻な問題は自殺者の増加の問題であり、高齢者社会での孤独死が痛ましい現実にある。尼崎でも人口50万足らずであるが年間200人ぐらいの孤独死の件数があるという。和辻哲郎は「人は人と人との関係において人間になる」といったといわれる。人一人では人間であるとは言えない。言葉を換えれば人間は「交わり」の存在である。人と人との交わりで人は生かされるといえる。

「兄弟が共に座っている。なんという恵、なんという喜び」(詩133:1)と詩篇で歌っている。ここで言う「兄弟」は、正に家族のような関係である。家族が車座に「共に座る」、口語訳では「和合して共にいる」と訳されている。それは「共に楽しく語り交わる」姿を意味している。心を開いて包み隠さず、心ゆくまで語り、時間を忘れて会話が続くさまである。人間にとっての不幸は「孤独」に陥ることである。人との交わりがなく。精神的にも物事に関心がなくなる。生活を支える交流がなくなる。そこには淋しさと不安が覆い、絶望感が襲うことになる。

人は、どんなときにも共に考え、悩み、苦しみ、労わり、支えてくれる人がいるとしたらどれだけ幸せであろうか。イエス・キリストは「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしを一人にしておかれない」(ヨハネ8:29)。また、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われている。

イエス・キリストを信じることは、ヨハネの手紙T、1章3節に「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」といわれているように神様との交わりに入れられることである。

キリストトの交わりは、いつも、どんなところでもキリストが共にいてくださる体験であり、キリストが語りかけ、わたしたちが語ることを受け止めてくださる経験である。へブル人への手紙7章25節には「この方(キリスト)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」といっている。クリスチャンの生活は,絶えずキリスト共に歩む生活であって、キリストとの交わりに生きる人生である。

そしてその交わりにおいてキリストは常に「救い」、物事の解決と勝利を約束し、実行してくださる。その交わりこそ祈りの生活である。その交わりを確かなものとしてキリストの語りかけを聴き、それに答え、生活の中での交わりの豊かさと恵を分かち合うことが礼拝のある生活であり、毎週日曜日には神の恵みの創造を讃え、神の愛を自覚する礼拝となる。祈りは、神への感謝の祈りとなり、賛美となる。そして神の偉大さを告白する、信仰の告白がなされるときに生けるキリストの臨在を体験する。「芳しい油が流れくだる。決して消えることのないヘルモン山の雪が溶けて遠くシオンの山々に流れ来るように、芳しい油、即ち、神の命のでありその臨在である聖霊が命として豊かな実りをもたらし祝福となる」と歌う。

キリストにあって神様と交わりがある限り、平安と希望が約束される。罪多く、不信と不安の壊れやすい人の交わりを、キリストは変わらない、壊れない、真実の交わりに生かして下さるのである。キリストを信じる信仰によって与えられる交わりは人を真実に生かす命である。生活の第一であり、土台はキリスの交わりを確信する礼拝の交わりである。日曜日の礼拝を守ることこそ祝福の鍵となる。
今週のみ言葉  へブル10章24、25節
「互いに・・・励ましあいましょう」




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