7月27日 礼拝メッセージ

「神の愛を生きる幸せ」  ヨハネよる福音書3種16節

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ:16)

この聖書の言葉は聖書66巻の主旨を最も短く要約しているといわれている。弟子ヨハネは“三つのL”をテーマに書き残しているといわれる。その“三つのL”は「愛」、「命」「光」である。

「愛」は、神の愛である。「世を愛された」というのはこの世の一人ひとりへの神の愛を言っている。人間は自分の力で生きているように思う。しかし、生まれながらにして母親の乳で育てられ、生まれたときから呼吸をする。その空気も、既に人が生きるために備えられたものである。生きることの出来る環境に人は生まれるのであり、所与のもの、言い換えればもともと与えられたものである。

ヨハネの福音書の1章には「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神でああった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。」(ヨハネ1:1,2,3)と記されている。すべてのものは神の創造による。聖書の冒頭には「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)と言われている。神が、すべてのものを創造し人を生きるようにこの世を備えられた。
人を生かす、しかも、幸せに生かす環境を創造された。正に、それは神が人を愛することの証明となる。自然は偶然にできたのではなく「神の言葉」、「言葉」とは、聖書の言葉では「ロゴス」でありそれは理性と知性を意味する。物事には原因と結果がある。すべてのものは、創造の神に根源があり、その創造の動機は愛である。人を愛するために、生かすために自然は神に造られたのである。

「愛」は責任をもつことによって確かなものになる。責任のない愛は、愛でなくなる。神を信じない人は自分を中心に生きる。「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)とイエスは言われた。愛するものの為に「命を捨てる」犠牲になることこそが真実の愛の証である。神を信じることは、神の愛に生きることを意味する。互いに人が、共に生きる。それは愛に生きることでもある。その愛が自己中心の愛ではなく、愛する人のために自己を犠牲にする愛で生きるときに人は真実の幸せを経験する。神は、活ける神であり、愛であるからこそ、「光」としてその独り子イエス・キリストによって神の愛を証明された。

人は、キリストに出会うことによって現実の自分を知ることになる。キリストは神の愛を語り、真実な愛から生まれる平和と喜びを伝えられた。人々は、キリストの真実に打たれ群がるようになる。それに対して為政者はキリストに反感を持ち、キリストを十字架につける。キリストは「敵をも愛せよ」との教えを空論にとどまらなかった。呪い、憎み、拒絶する人々を赦し、祝福し、最期まで罪深い人々を憐れまれた。これを見ていた人々は、「この人こそ神の子である」と告白したという(マタイ27:54、ルカ13:47)。

人が、現実に神の愛に生きるときにこそ、神の約束される平和、平安、融和と希望が経験されることになる。それは変わることのない真実の命に生きることでもある。限りのある人生でなく、時空を終えた永遠に変わらない「命」、神の愛に生きることになる。人生は一度しかない。神の愛に生きる幸せを日々に築いこうではないか。

今週のみことば コリントT、9章23節




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