9月7日 礼拝メッセージ

「幸いな人」  ルカ16章19〜31節

 イエスを救い圭として信じ、従う事のできる人は幸いな人である。主はさまざまな事を話して下さった。今日のテキストであるルカ16章には、大金持ちと貧しいラザロの姿が描かれている。

この世的に考えてどちらが幸いかと考えるなら、大金持ちであると思える。彼は仕事をする必要もなく、ぜいたくに遊び暮らしていたのである。一方ラザロはどのような事情か解らないが、貧しく、病気で食べ物にも事欠くようなありさまであった。

 貧富や身分に関係なくだれでにでも訪れるのが「死」である。肉体の死と考えてよい。ラザロは死に、やがて大金持ちも死んだ。彼は天国で慰めを得ているラザロを発見した。自分は苦しみの中にいる。もはや手遅れであった。行き来できない所に別れてしまぅたのである。これらの主の話は教訓に満ちて、我々の生き方を指し示している。

@幸せかどうかはこの世の富てははかれない。
  富(地位)があっても、人を思いやれない人は幸せにはなれない。人は愛されたい存在である。主は無条件に愛を注いでくれるか、世の中はそうではない。愛される要素があるのである。愛され、受け入れられるのは、心遣い、思いやり、配慮が自然にできる人である。

A幸せな人は与える喜びを知っている人である。
  ラザロは空腹を抱えて残飯でもよいから欲しかった。金持ちの家には食料が有り余っていたであろうに、ラザロに全く無関心で与える事はなかった。これは金持ちの心の持ち用を表し、日ごろから隣人に心が向いていなかった。彼は貧しい人であり、幸せではなかった。

B救われている人は幸いな人である。
 「からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。」(Tテモテ4:8)
今の命と後の世の命とあるのに注意しよう。今の命も大切だが、後の世の命、即ち永遠の命が大事なのである。救いはこの世にある時に受けられる。神は生ける者の神である。信心、「信仰」こそ大きな利得、人は何ももたずに生まれ、何ももたずに世を去るとTテモテ6;6、7には記されている。

 今こそイエスをキリストと信じ、信じた者は神の栄光を表すために生きようではないか。そのように生きるとき、現実の生活は結果として祝福されるのである。救われた人、永遠の命を得た人、その人こそ真の幸いな人、人生をおくる人である。

◆今週のみことば◆

詩編34篇9〜10節
「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
 主を畏れる人には何も欠けることがない。」







 ページのトップへ    2008年の礼拝メッセージ  他の年の礼拝メッセージへ      トップページへ