9月14日 礼拝メッセージ

「人を生かす命の水」  ヨハネによる福音書4章3−15節

 人間は水がなければ生きていくことはできない。人間の体全体の三分の二が水分からなっているのである。水のあるところに人が集まり、生活が生まれ、町ができ、歴史や文化が生まれる。砂漠には人はすまないし住めない。そこには水がないからである。

ヨハネ伝4章には有名なサマリヤの女の話がある。イエスが弟子達と共にユダヤからガリラヤに行かれようとして、サマリヤのシカルという町にさしかかり、旅に疲れたところ、町外れに井戸があってそこに座り込んでおられた。丁度、正午ごろで弟子たちは食物を買いに町に行っていた。その時、一人の女の人が水を汲むために井戸にやってきた。イエスは女に「水を飲ませてください」と言われている。

女は「どうしてユダヤ人がサマリヤの女であるわたしに水を飲ませてくれと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリヤ人と交際しなかったからである。しかし、奇妙なことにイエスは反対に「水を飲ませてくれと言ったわたしが誰であるかを知ったら,その人は反対に頼んで、その人は“生きた水”を与えることだろう」と言われた。女の人は話がわからず、“汲むものもないのに、井戸も深いのにどうして水をくむのだろう”と訝るのである。“生きた水”とは何か。イエスの言葉は、「神の賜物」と「水を求めている人が誰であるのかを知っていたら」その人はあなたに「生きた水」を与えるだろうと言っている。

 イエスは井戸の水と共に全く違う、人を「生かす水」を示している。井戸の水は時と共に渇く。補給しなければならない。補給しなければ健康は保てない。命が失われる。それは限定的性格である。イエスの言われる「生ける水」は、“湧き水で水”である。「その人のうちで泉」となると言われる。一旦、「生ける水」を飲めば飲んだ人のうちに泉となる。これは聖霊、即ち、「神の賜物」である。その「生ける水」は「永遠の命に至る水」であり、それは渇くことなくうちから湧き出ると言う。

ヨハネ7章38節では「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから“生きた水”が川となって流れ出るようになる。」と言われている。女の人は「その生ける水を下さい」と言う。イエスは井戸の水の話題から「生ける水」を受ける人の動機に迫られる。女の人は、正午に共同井戸に汲みに来ている。普通、この時代の生活では水汲みは朝か夕方に汲みに来る。日中、正午には来ない。この女性の生活ぶりは人目をはばかるか、朝寝をしてふしだらな生活でそうなったのか想像できる。

イエスは突然、「あなたの夫を呼んできなさい」と言われる。女は「夫はいません。」と言う。不思議なことにイエスは女の人の生活を見抜くように「あなたには夫は5人いたが、今、連れ添っているのは夫ではない。」と見通される。女の人は隠している罪を指摘されることによってイエスが神の人であることに気付く。サマリヤ人は、ユダヤ人が律法と知恵に頼ることに偏り、モーセの律法から遠のいていると非難していた。あるいは軽蔑して、対立している。サマリヤ人の礼拝が正しい道であり、その女の人もその自負心を持っていた。

しかし、イエスはエルサレムでもサマリヤ(ゲルジム山の神殿)でもなく、真実の礼拝をするとき、真実の救いの道があることを告げられる。その道を示す真実の神の人,メシヤ、即ち、キリストこそ「わたし」であるとイエスは証しされる。サマリヤの女の人は自らの罪深さを悟り、イエスが救い主キリストであることを告白し、イエスをキリストとして確信する。生活に水は不可欠である。それと共に人間としてキリストにあって目覚め、この世が変わるとも永遠に変わらない真理に生きる神の道こそ真実に人を生かすことになる。

変わりやすいこの世にあっても、いかなる時でも神が共にいてくださるところに勝利の生活を約束するのか信仰である。永遠を今に生きることになる。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。
 死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ロマ8:34−39)







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