9月28日 礼拝メッセージ

「新しい誕生と神の国」  ヨハネによる福音書3章1−6節

 この世の仕組みには見えるものと見えないものとによってなっている。自然の中にも、その営みや移り変わりの見える姿だけでなく、その変化、移り変わりは移り変わらせている命やエネルギー、力があるからである。その命や力は見えない。

 人間の生活も見える健康な体と見えない精神や心の働きで成り立っている。見えないが命があればこそ人は生きることができる。見えない命が見える体を支えている。精神や心も見えない臓器であってその中の“思い”がその人の生き様になる。それだけでなく人間が人として生きるには“正しく生きる”ことが求められる。それが人の生きる道となる。

「はじめに、神は天地を創造された。」(創1:1)神がすべての命と存在の根源であることが分かる。そして「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創1:31)神は、満足され、御心に適っていた。“良(よし)とされる”ことは“正しい”こと“善なる”ことでもあった。神は「人を神に似せて造り」(創1:27)、人に自然を「支配する」(創1:28)することをゆだねられた。言い換えれば、人は、神の“良し”とされる、“神が満足される”こと即ち“神に喜ばれる”ことが生きることによることが“正しい”“善なる”ことになる。違った言葉で言えば、“神の栄光”を現すことである。

 イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:15)ユダヤの伝統では神を信じることは神の御心に生きることである。御心は律法を守ることであった。律法は見える行為であって見えない心の中の醜さは問題にならない。イエスは真実に神の御心に生きるときには見える“正しさ”だけでなく見えない心の“清さ”が根本的に大切であると指摘された。

言い換えれば、どんな人間も不完全で、罪深いものであるということになる。そこで、ありのままの自分の心の罪を認め、反省し悔い改めるときに神は慈愛を持って受け入れてくださるといわれる。律法学者でありファリサイ派の教師であるニコデモはイエス様の言われることが自分達の律法を中心の考えでは真意が理解できずにいた。

しかし、人の病気や障害を不思議と奇跡を示されるのを見てイエス様の導きを神からのものと認めるようになっていいた。しかし、イエスは言われた「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)人は奇跡や癒しの業を見て神の全能と存在を認めようとする。イエス様は、更に、「霊と水とによって生まれなければ神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)と言われる。

聖霊によって自分の罪を自覚し、神の前に悔い改めること、即ち、新しく誕生する、生まれ変わることなくして真実に神を認識できないといわれている。ニコデモは実際にお母さんの胎から再び生まれ変わることと考えてイエスの言われる霊的新生を理解しなかった。

 人間は、創造主にして命の根源者なる、見えないが神が実在されていることを信じ、神の言葉としての聖書の約束する神の愛と救い、即ち、福音を知り、信じ、受け入れるときに神の国が今の事として見える、体験で来るようになる。神の国は永遠に変わることのない現実となるとなる。神に愛されている自分、神に支えられている自分、神の御心に生きる幸せな自分に出会うことになる。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントU、4:18)





今週のみ言葉  ロマ書10章9節




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