10月5日 礼拝メッセージ

「主の晩餐の交わりと喜び」 マタイによる福音書26章26−30節

 わたしたちの教会では伝統的に二つの礼典が守られている。一つは洗礼であり、一つは聖餐である。洗礼はイエス・キリストを信じて神の子供とされる、神の子の誕生である。

使徒パウロは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ6:3,4)といっている。信仰は聞く言葉によって生まれる。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)

キリストの言葉とは、正に説教である。説教の中心は「十字架の言葉」(コリントT、1:18)であり、説教は単なる抽象的な言葉でなく、“神のしるし”としての言葉である。なぜなら「わたしたち救われる者には神の力。」であるのです。力は“しるし”であり“生活の行為”、命なのです。キリストを信じることはキリスト共に十字架に死に、甦ることを体験することであり、生まれ変わることであるのです。生まれ変わりは一回的なことですが,「キリストと共に生きることにもなると信じる。」(ロマ6:8)のです。

生きることは日々の生活であり、キリストと共に生きることを確認することであり、“キリストの十字架”を日々の命として生きることなる。日々、キリストにあって、キリストと共に生きていることを確認することこそが「聖餐式」である。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。

また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリントT、11:23−26)と使徒パウロは言う。キリストの体を表わす同じパンを食べることは、言葉による宣教(説教)によって、見える言葉となった教会、そこにキリストに生きている証としての聖餐式がある。

血は命、キリストを命として生きることを示す。キリストの命、十字架の死と救いを“思い”、今、この生活と交わりの中で生きることを確認することである。記念とは“思い出し”であり、キリストの十字架を現体験することにある。それは繰り返し、守ることによって見えない信仰が見える“しるし”として証しすることにもなる。

 聖餐式はキリストを信じる証であり、キリストの体なる教会にあって交わりを通してキリストの臨在に生きる証である。クリスチャンにとってこれは主が再び来られるまで希望を持って繰り返し守られることである。聖餐式を通して主にある救いの喜び、永遠の命への希望、既に完成されているキリストの救いが、いまだ未完成な、問題や試みの現実にキリストの来臨に希望をおいて、今を主のみ心にあって神の国を証しする。勝利の日々を感謝と賛美を持って進んでいく日々である。



今週のみ言葉  
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」
ヨハネの手紙T、1章3節ロマ書10章9節




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