10月12日 礼拝メッセージ

「祈りのめぐみ」  マタイによる福音書6章5−15節


  クリスチャンの特質は「祈りの生活」にあるといえる。宗教的には一般的に「祈り」とは「祈願」であり、「念仏」と言われる。しかし、聖書の教える意味での「祈り」は、単なる「御願い」だけではなく祈りは「キリストに聴く」ことから始まる。その理由は、信仰とは「信頼」である。

神様を信じることは信頼することである。信頼は「言葉」によってお互いが繋がるのである。お互いが解ることによって繋がることである。また、一般的に「宗教」とはレリジョンと言い、レリギオと言うラテン語から来ていると言われる。それは本来「結ぶ」と言う意味であって、神様と人を結ぶことである。その結ぶことこそ「信頼」「信じる」ことになる。

先ず、神様の語りかけを聞くことによって心が開かれ「神の言葉」を信じるところに信仰が生まれる。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)と使徒パウロは言っている。キリストの言葉を聞いて、始めて信仰が生まれる。

「信じます」という告白である。祈りはキリストの語りかけへの応答であることがわかる。神の子供の産声である。産声は人が生きていく最初の証でもある。その人生の第一声を発することによって人としての言葉の人生が始まる。祈りは神の子供が生きている証である。信仰があるのか、信仰が生きているのかそれは「祈る」日日であるかどうかにかかっている。

祈りは信仰によって経験するキリストへの感謝の言葉であり、神の恵みの喜びであり、賛美でもある。キリストの言葉への応答としての告白である。そこに神への願いがあり、願いの成就の感謝がある。そして、キリストがいつも守り祝福をもって導かれる活ける神であることを実感することを告白するときでもあり、信仰の告白となる。

そこでマタイの福音書の山上の説教の中で「祈り」について第一に注意されている。それは祈りはけっして人に聴かせるものでないと言うことを注意している。次に、言葉が多ければ祈りが答えられると錯覚してはならないと言われている。祈りは形式や単なる儀式でもない。祈るときは「偽善者」のように祈るなと言う。「偽善者」とは人を欺き、神を欺くことを言う。祈りはありのまま、真実、真心を持って祈ることが大切である。

くどくどと祈ることはまた、神様がわかってくださらない、信じられないから“くどくど”と祈ることにもなると言える。だから「父なる神は、願う前から、あなたがたの願いをご存知である。」と言う。(マタイ6:8)

第一に、「神のみ名が崇められる」ことを祈ることである。それは「神のみ心」が実現されることでもある。実際の日常生活に神の国が経験できることを言っている。そして必要な日々を与え生活が保たれ、互いの神の御心が生かされ、神の愛に生きる許しと和解を持って平和に生きることを願い、悪の誘惑に勝利するように助け、守ってくださるように祈ることを教えておられる。

特に、神の国の平和は互いに「赦し合う」ことにこそすべての幸せの基があることをいっている。赦すことは、忍耐が要る。寛容が求められる。謙遜が求められる。イエスキリストは生涯を通して神の愛を証しし、自ら犠牲となって十字架に架かり、迫害する人々の為に祈り罪赦すことを示してキリストの祈りを教えられた。「主の祈り」はクリスチャンの信仰告白であり、生活の道である。その道にこそ神の約束される祝福の道がある。毎日繰り返し「主の祈り」を繰り返し、この祈りが心となり生活に豊かなキリストの恵みのみが結ばれなければならない。

今週のみ言葉

 「これらのものがみなあなたがたに必要な…
  これらのものはみな加えて与えられる。」 (マタイ6章32,33)




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