10月26日 礼拝メッセージ

「格差社会とよき隣人」  マタイによる福音書10章25―37節


 世の中の仕組みが変わる時、一人ひとりの生活や人生を激変する。この世の中はより豊かにより便利を目指して発展する。発展とは良いイメージであるが、発展する変化の中で新しい環境に適応するまで混乱や試練、困難が人を襲う。日本の国は良くも悪くも小さい島国で生きるために規制してうまく発展してきたとも言える。しかし、気がついてみると規制が権力と利権絡みとなっていつの間にか政治腐敗の温床となってきている。

十数年前にバブル経済を機に大きく構造改革と規制緩和の舵が切られた。自由競争による経済の活性化である。そして、小泉内閣は利権政治の牙城の一つ郵政民営化を断行し国民的な支持を得た。その反面、大資本による流通形態の激変で個人商店、飲食業が廃業に追い込まれ、古い商店街はシャッター街と変わった。

技術的にも生活様式の変化で呉服屋、カメラ屋、時計屋といった職種は成り立たなくなった。そして人々の生活には様々な格差が生まれることになる。社会の激変と競争は人々を心の荒廃へ追いやる。儲けるためには何でもやる。自己中心の儲け主義は社会の信頼を破壊し、混乱と不安を生む。そこで騙しの商売が横行するようになる。

働く人を大切にすることより利益中心に機械の部品のように使い捨ての会社が多くなる。政治は財政難を理由に福祉や医療、教育といった命と生活の基礎に関わるお金さえも冷酷に切り捨てるようになっていることが問題視されている。自由は人の基本的人権であり、人が人として生きる証である。

自由のないところには真実な幸せはない。しかし、自分だけの欲望を満たすために何をしてもよいことが自由でない。それは放縦である。J.Fケネディの言葉に「人を大切にしない人は自分を大切にしない。」がある。人は共に生きる。人を思いやる。人を愛することが人として生きる証になる。特に、障害のある人、弱い人、健康に恵まれない人など一人で生きていくことが不可能な人々を思いやる社会であり家庭であることが人の証であると言える。格差はどのような時代、社会でもなくならない。愛のあるところに自由があり、自由のあるところに愛が生かされる。

イエスはよきサマリヤ人の物語を通して真実の愛の生き方を教えておられる。ユダヤにおいては人生の目的は「永遠の命」、即ち、神の国に入ることであり、その前提として律法を守ることであった。ある律法学者がイエス様に尋ねた「永遠の命」を得るためにはどうしたらいいのですかと。イエスは律法にはなんと書いているのかと問われた。その人は「神を愛し、隣人を愛せよ」と書いてあると言う。そのように行いなさいと言うイエス様の言葉に、彼は「その隣人とは誰のことですか」と言う。

そしてイエス様はよきサマリヤ人の話をされるのである。ユダヤ人とサマリヤ人は歴史的な経緯の中で宗教的理解のために対立状態にあった。そこで優越感を持って差別をし、会話もしない。村には入らない、入れない状態であった。人里はなれた淋しいところで一人の旅人が強盗に襲われて半死半生の状態になっていた。そこに祭司(神に仕える人)が通りかかり旅人を見て自分にも危険に襲われると言う恐怖に駆られて見てみない振りをしてそこを去った。また、レビ人(専任で神に仕える人)が通った。

同じように危険を感じて何もしないで逃げた。そこへサマリヤの人が来て気の毒に思い手当てをして、宿屋まで連れて行きお金を渡して介抱を頼み、2,3日後また来るから足らない分をその時に渡すと約束して去ったというのである。この中で誰が「隣人」であるのかをイエス様は問われるのである。神を信じていても「神の愛」を行なわないところには神はおいでにならない。

人間が真実に愛し合うところにこそ「神の国」があると教えられる。
どのような社会の中でも人が人としての心を失わないところに「神の国」があり、そこにこそ希望がある。キリストによって表わされた神の愛こそは真実の幸せの「自由」を与える人を「自主」の人にする。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)

今週のみ言葉

 「これらのものがみなあなたがたに必要な…
  これらのものはみな加えて与えられる。」 (マタイ6章32,33)




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