11月16日 礼拝メッセージ

「試練の中の確信と希望」 コリントの信徒への手紙1章3−11節



 人生は思い出の集積だといわれる。幼いころ、少年時代、青年時代、進学、就職、結婚、誕生と離別、人の生涯には色々な思い出がある。私は後期高齢者にさしかかるころとなった。人生を振り返って見ると幾つかの区切りに分けることができる。京都での裕福な生活、戦争による疎開での苦難の日々、戦後の混乱のなでの青少年時代、幸せな神学校時代、赤貧の伝道者生活、牧師として仕える祝福の日々となる。振り返れば時代に翻弄された試練の連続でもあり、その中での挫折と希望、苦しみと喜びの連鎖でもあった。

私の父は西陣織のデザイナーとして多くの弟子に囲まれた裕福な生活であった。太平洋戦争が激しくなる昭和19年の夏に一家は島根の山奥の寒村に叔父を頼って疎開することとなる。慣れない田舎の生活に苦しみ、父は職を求めて海岸の町の小さな木工場で働く。追い打ちをかけるように風水害に見舞われ家財を失う。戦後の食糧難の中で一家は何とか隣人の善意に助けられて生きる。

田舎では殆どが中学を卒業すると漁師や百姓になるか、大工や左官として弟子入りする。私は、田舎に生活基盤がないので赤貧の中で何とか高校に進学する。このような田舎で福音に出会い、やがて不可能に近い進学を目指して上京し、人々の善意に助けられて大学に学ぶ機会が与えられる。そしてアッセンブリーの教会に導かれて神学校に学ぶ。卒業後、開設間もない尼崎教会に遣わされて伝道を始める。

苦しく、貧しい少年時代をすごした私は中学1年の時にキリストに出会い、学校の先生によってリンカーンの人類愛に触れた。貧しくとも学んだリンカーンが黒人奴隷解放に立ち向かったように、人のためになる人生を歩もうと言う希望を持つようになる。東京で教会に導かれ、明確に罪の自覚とキリストの十字架の赦しを経験した私は伝道者の道こそ神から与えられた自分の道であると確信して伝道者になった。

そして神を信じる信仰は試練の中でも「希望」を与えられる。「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。」(Uコリント1:8)「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(10)キリストを信じる信仰は希望を生み出し、希望は勇気を生み出す。それは努力となり、生きる力となる。ピンチのない人生はない。

キリストを信じることはキリスト共に生きることであり、キリストが教え、励まし、慰めてくださる。そして道を備えて下さると言う約束があることが支えとなり、力となる。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)

だからこそ「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(Uコリント1:4)試練のなかでのキリストの慰めが、人をも慰め、救うことが出来る人に変えられると約束している。「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」(4)だからこそ「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。」(11) 

今は、試練の時代です。今こそ予期しない試練に出会う時、キリストの希望をもって、祈り合い、助け合い、支え合ってキリストの愛に生きることが大切である。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3−5)




今週のみ言葉 
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)




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