11月23日 礼拝メッセージ

「誘惑と試練の狭間」  ルカによる福音書4章1-13節



 「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。…むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:13−15)

 欲望は人間の本質である。欲望とは“ほしがること”“ほしいと思う心”“不足を感じてこれを満たそうと望む心”(広辞苑)であると言う。考えてみれば人は何も持たずに生まれる。空腹を満たすために乳を求めて泣く。生きるためには健康な食欲が必要である。平穏な生活を願って働かなければならない。よい仕事をするためには色々な知識を求めることになる。働くには健康でありたい。欲望というのは自分を生かすエネルギーでもある。欲望と言うとどうしても私利私欲、自分勝手というようになる。

確かに自分の意志や理性がまだないとき人のあり方は空腹や不快感などを解消するため自己主張をする。その自己主張が命を支え、成長に繋がる。人の存在は自己主張のあり方である。不思議なことにその要求にこたえる最初の出会いが母であり父である。両親の愛情に守られ、育てられて人になる。人は愛されている自分を発見して、人を思いやる最も大切な愛を育(はぐく)み真実の人と成るといえる。欲望をコントロールして人共に生きることになる。それは自分中心の欲望の生活から人を愛し、共に生きることこそが人の生きる道であることに目覚める。

 その人の愛が、神様がキリストによって表わしてくださった「神の愛」によって生きるときに本当に自分のあり方に出くわすことになる。イエスキリストを信じることは自分の根本的な罪である自己中心、欲望中心の存在を自覚して、新しい「神の愛」に生きる命の道を歩むようになることである。

 人間は、長い人生で色々な人と出来事に出会い、試される。試練である。試練はしばしば誘惑が付き纏う。その試練を乗り越える基本的な教えがキリストの言葉である。キリストの誘惑の物語は人が人として生きる道、人と成る根本的なあり方を示されている。

 第一は、「人はパンだけで生きるものではない。」ということである。40日の断食の後、最も空腹になり、生死を彷徨(さまよ)う時に「神の子なら石をパンに変えよ」と言う。飢えにはパンである。しかし、イエスは「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」この文書はマタイの福音書である。人はどのようなときにも神の言葉に生きよというのである。トルストイは幸福論の中で「人は食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのである。」と言っている。人として生きるためにこそ神の言葉に生きることになる。神の言葉に生きるとは神の愛に生きることのほかならない。

第二に、悪魔はイエスに全世界を見せて、私を拝むならば、この世の権力と繁栄を与える。」と言う。権力と繁栄は人にとって最高の誘惑である。ルカ福音書では「この世の一切の権力と繁栄はわたしに任されている。」と断言している。確かに欲望の対象である権力や繁栄の象徴としての富は魔物とさえ表象されている。悪魔の手にあることは現実であるといえる。金と権力に振り回されて人は、人間性を失う。人が、真実の人間性を持って権力と富を支配するときにこそ真実の繁栄の道が開けてくる。イエスは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と聖書を引用される。愛なる神を第一とするときにこそ真実の人間性が保証される。

第三に、悪魔はイエスを神殿の屋根に立たせて「飛び降りろ」と言う。聖書(詩91:11)には「神は、天使をして助けられるといっているではないか。」と書いていると言う。そこで「神を試みてはならない」(申6:16)と答えられる。現実に信仰はお陰信仰になりやすい。試練や困難なときには神に祈るが、後はどっちでもいいというようなこの世的風潮への厳しい指摘である。神を信じることは、いつでも,どんな時にも、どこでも例外なく、神を信じる信仰は人を救い、解決を与え守られるのが真実の神である。試練の中にあってもいつも誘惑に惑わされること無く、ただ主を信じきることこそが祝福の鍵となる。




今週のみ言葉 
「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8章37)




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