12月21日 礼拝メッセージ

「愛と平和のクリスマス」   ヨハネによる福音書1章1−18節


 今、世界で一番求めているものは「平和」と「愛」です。人は平和の中でこそ安心と希望が持てるのではないでしょうか。安心と希望があるところに成長と発展があり、団欒があるといえます。世界では9億の人々が食糧危機にあるといわれます。そして毎日飢餓で2万人以上の人々が死んでいるというのです。

その原因の大きな理由は内乱、戦争によるものが多いといわれます。テロの多くはイスラムの自由主義社会にある弱肉強食への反動、ここでも貧富の差が対立意識の動機だとよく言われます。肥大化する資本主義社会の欲望にまみれたマネーゲームの成れの果てが世界を不安にしているのです。闇が覆っています。

人間の幸せは本来、愛し合って生きることにあります。愛することは労り、思いやり、助け合い、慰め合うことです。愛し合うところに信頼があり、信頼があるところに一致が生まれます。それが平和です。この平和があるところに希望が生まれるのです。

どんなに辛い境遇の中でもこの「愛」があるところに希望が生まれるのです。この本来的な愛が失われるところでは自己中心の自我が剥き出しにされ、欲望の地獄となるのです。「神は愛なり」(ヨハネT4:8、16)とあるように、愛のない世界こそは地獄といえるのです。人が真実の愛、神の愛を失うところに果てしない混乱と不信が渦巻き、不信と絶望が人を襲うことになります。そして何のために生きているのか解らなくするのです。そこで虚無が襲うことになります。

 すべてを創造された神は命と存在の根源であり、愛なる神であるのです。闇に覆われた、即ち、神から離れた罪と混乱の中にある人を愛しておられる。愛は、見えない。しかし、愛なくして真実の幸せ、即ち、解決は無い。

愛は、見える形、生活の中で命として人を平和で幸せに生かすことになります。神は愛であるがゆえに、人となり、人が見失っている神を、神の愛をお示しになった出来事がクリスマス、イエス・キリストの御降誕であるのです。「言(キリスト)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)「まだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)

そしてイエスは「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」(ヨハネ12:45)イエスは「自分を愛するように隣人を愛せよ。」、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と言われます(ヨハネ15:13)。大いなる愛とは、完全なる愛であり、人の犠牲になる愛こそは愛の証明であると言われています。この世の愛こそ欺瞞に満ちたものはありません。この世は我欲をカムフラージュした偽善的愛に満ちています。

神の愛を見失った罪の世界なのです。イエス・キリストは徹底して真実の神を現されました。人々はキリストの真実を偽善で裁き、真実の愛を我欲で拒絶したのです。そして、神の御子であるイエスを十字架にかけて殺してしまいました。神を殺すという罪を犯しながら、なお、その偽善を自覚しない罪深さが浮き彫りにされています。「そのとき、イエスは言われた『父よ、彼らをお赦しください。

自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ23:34)イエス・キリストこそ真実の神の愛を現し、「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エペソ2:15,16)

キリストの使命は人に真実の神の愛と平和を実現する道筋をそなえるためにこられたのです。クリスマスは人々が神の愛で生きる喜びを分かち合うために御子イエス・キリストがお生まれになったことを喜ぶ日であるのです。世界が、家庭がクリスマスの愛と平和で満たされますように。



今週のみ言葉 ヨハネによる福音書12:45

「私を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」




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