1月11日 礼拝メッセージ

「希望と決意の祝福の実」 ヨシュア記1章5−9節


 「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:8−9)

日本では20歳をもって成人となる。大きな特徴は成人になることは政治に参加できる投票の権利が与えられることになる。それは人間として人と共に生きる責任を持つことである。言葉を換えれば「一人立ち」することである。先ず、自分が人として生きる責任を持つということで「自立」することである。法律的には未成年でも結婚して家庭があれば成人と見なされるようである。それは家族の責任を持つことによるといわれている。しかし、現実には人は20歳になると出来上がった「人に成る」のかというと現実はそうでもない。年を経ても依存心が強く、無責任な生き方しかできない人もいる。人は、どんな人でも完成された人はいないと言える。人に成る、「成人」は完成された人を言うのであろうか。人間は迷いやすく、自己中心になりやすく、無責任なことをすることもある。

イスラエルでは13歳までに聖書を学び、暗証してそれを確かめられて「成人」式を迎えるといわれている。そして成人式には家族総出で祝い、成人は聖書を持っておどり祝うという。その伝統は「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:8)と言う言葉に表わされている。詩編でも「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩1:2、3)。

神を信じ、その教えを口ずさむ、暗証することによって生活や人生を神の御心に生きることを意味している。それはとりもなおさず「成功」と「繁栄」のみを結ぶと約束している。ここでは成人とは神様が共にいて教え、守り、導くところに人の道があるということになる。神を信頼することによって神の教えといのちに生かされて人は始めて人として生きることができると言うのである。そこにではいかなる時にも希望は失せず、試練や、困難にも立ち向かい自分を見失うことなく確信に生きる人に成る約束がある。

第一に、創造主なる神を信じることは、その全能なる悠久の力を知り、生かされている自分に出会い、愛されている自分を発見することになる。そこに与えられる恵は「謙遜」である。人にとって最大の恵は、神の偉大さによって自分の小ささ、弱さ、儚さを自覚できることである。

第二に、神に生きることはキリストによって表わされた「神の愛」に生きることである。その愛は、謙遜に裏付けられた犠牲の愛である。家族を愛し、社会を愛し、国を愛することであり、その愛は責任でもある。責任のない愛は、自己中心の放縦となる。そこには混乱、破壊、憎しみと不和が待っている。キリストにある責任の愛は、和解、一致、和合、喜び、感謝が約束されている。

第三に、「時が来ると実を結ぶ」と約束する。全能であり、あいなる神の約束は信じるものに「希望」を与える。コリントU、1章7、10節には「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。…わたしたちは神に希望をかけています。」と告白している。

真実に人に成るとは、神を信じ、神を愛し、人を愛して、人に愛される人として生きることである。


今週のみ言葉

 「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、
  そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。
  そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:8)





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